今週のみことば


11月24日

「そういうわけで、これらのことを耳にして以来
わたしたちも絶えずあなたがたが
あらゆる霊的な知恵と理解力とをもって
神の御旨を深く知り
主のみこころにかなった生活をして
真に主を喜ばせ
あらゆる良いわざを行って実を結び
神を知る知識をいよいよ増し加えるに至ることである」
(コロサイ人への手紙1章9-10節)

”神の御旨””主のみこころ”についての理解は
それを受け止める人の心によって異なります
本当の神の御旨は何なのかを知らず
ただ「見せる信仰」が熱心になることは
真に神を喜ばせる道とは言えないでしょう

「神はわたしたちを闇の力から救い出して
その愛する御子の支配下に移してくださった
わたしたちはこの御子によってあがない、すなわち
罪の許しを受けているのである」
(同章13-14節)


聖書は、まず
人が罪の許しの洗礼と聖霊のバプテスマを受けて救われることを説き
救いにあずかった者を対象として
その後の歩み方、つまり神の御旨の道を示しています
つまり
まずは”闇の力”から解放されるべく救いを受け
イエスの支配下に移され
その上で
”あらゆる霊的な知恵と理解力とをもって”
神の御旨を知る者とされているのです

ところが
聖霊が人の内側で燃えてその人を御旨の道に導くことと
単にその人の心の思いが燃えるのは
似て否なるものです
心のうちに間違った思いが燃えることを
いわゆる「のぼせ上がる」とも言うわけですが
人はしばしばそれをいかにも神の御旨と勘違いし
自分で正しいと信じている道を突き進もうとするのです

せっかく救われて
これからは神と共に歩むのだと決意しながらも
なお「わたしが」との思いを持ち続け
見える行いの部分にばかり熱心になり
「自分流の神の御旨の道」を打ち立ててしまうのは
非常に残念なことだと思います

では
わたしたちを闇の力から救い出してくださる
この御子=イエスさまという方はどういう方でしょうか

「御子は、見えない神のかたちであって
すべての造られたものに先だって生まれたかたである
万物は、天にあるものも地にあるものも
見えるものも見えないものも
位も主権も、支配も権威も
みな御子にあって造られたからである
これらいっさいのものは御子によって造られ
御子のために造られたのである
彼は万物よりも先にあり
万物は彼にあって成り立っている」
(同章15-17節)


世の中では
イエス・キリストは2千年前に生まれたことになっています
しかし、ここを読む時に
”彼は万物よりも先にあり
万物は彼にあって成り立っている”

つまりイエスは
天地創造の唯一の神の目に見えるかたち
すなわち神ご自身であることがわかります

その天地創造の神の御旨と
人間の考えには
考えも及ばないほどの大きな差があったとしても
それは不思議なことではありません
人はどうしても神の心でさえ人間レベルで考えてしまうため
さまざまな間違いや混乱も生じるのです

ルカによる福音書10章38節からは
マルタ、マリヤの姉妹がイエスを自分の家に招いたことが記されています
そこで姉のマルタはイエスをもてなすことに心奪われ
妹のマリヤがずっとイエスのそばにすわって話を聞くばかりで
自分の手伝いをしないことに腹を立てます
しかし、そんなマルタにイエスは答えました

「マルタよマルタよ
あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている
しかし、無くてならぬものは多くはない
いや、一つだけである
マリヤはその良い方を選んだのだ
そしてそれは彼女から取り去ってはならないものである」(41-42節)


神さまのためになにかをするには
色々な方法があります
マルタとマリヤの行動のうちどちらが神の御旨であったかは
ここに記されているとおりです
人間的な思いを交えるなら
マルタの心づかいがほめられないのは納得いかないかもしれません
せっかく人が良い心でしようとすることであっても
しなくていいといわれたならば
それで良いと思うのが神の道です
ところが
それを良しとできないならば
そこにあるのはただ自分の面子です

教会にあっても
まずみなさんに第一としていただきたいことは
礼拝を守り、しっかりみことばに耳を傾けていただく事です
ひとりひとりが自分と向き合う時を持ち
何が神の御旨であるのか
自分はどう歩むべきなのかを考えていただきたいのです

救われてもなおその信仰は発展途上であり
自分の直さなくてはならない部分や
非を認めて悔い改めなければならないことも
素直にみことばを心に留めていくと見えてきます
この「神に聞く」行為をおざなりにして
別の行為(奉仕など)に熱心になっても
最も根本的かつ大切なことを理解するのは難しいでしょう

「この人(イエス)による以外に救いはない
わたしたちを救いうる名は
これを別にしては
天下のだれにも与えられていないからである」
(使徒行伝4章12節)


わたしたちは自分の熱心で救われることはありません
救いは神により
平安な人生も神から与えられます
すべての権威は神に属し
どんな時も人ではなく神が崇められるべきこと
信仰者は決して表向きの派手さを求めず
つまり、素晴らしい信仰者だとの評価も求めるべきではないことを
深く認識しておく必要があります

というのも
人にはすぐ神以外のもの(人)を崇めようとする傾向があり
しばしばお金や世の名誉を追いかけて
神の御旨の道を踏み外しがちです

使徒行伝においてイエスに捕らえられたパウロは
かつて持っていた誇りをすべて投げ捨て
すべてを失ってイエスに従いましたが
彼はそれらのものを
みなくだらない物だと思うに至ったと記されています
多くの人が人生をかけてまで求めて行くものを失った彼は
なぜそのような気持ちに達することができたのでしょうか
それは
むかし自分の持っていた誇りよりも
はるかに大きな神の栄光を知ったからです

人知れず進む信仰生活は
派手さを求める人にはつまらないものと思えるでしょう
奉仕活動など
いかにも自分で頑張っていることが実感できる方が
立派に信仰しているような気分になれるものです

しかし
最も大切なことはどんな時にも神が崇められること
立派な牧師や信者が重要なのではなく
わたちたちを導き、養い、育ててくださる神に
すべての栄光は帰されなくてはなりません
その上で
あらためて神の御旨は何なのかを考えてみる時に
ただ与えられた道を静かに歩むことこそ大切であると教えられるのです

神の御旨を知ることで
何があってもくよくよしない生き方を学び
人生に勝利する道を進むべく
導かれてまいりましょう




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