今週のみことば
12月2日
「『ああ主よ、わたしが真実と真心をもってあなたの前に歩み
あなたの目にかなうことをおこなったのをどうぞ思い出してください』
そしてヒゼキヤは激しく泣いた」
(列王紀下20章3節)
ある日、預言者イザヤによって命の短いことを知らされたヒゼキヤ王は
その病気が癒されるようにと一心に神に祈ります
すると、ほどなく再びイザヤに神の言葉がのぞみ
ヒゼキヤの祈りと涙によって
神は彼を癒すことを約束されたと告げました
こうして寿命を15年延ばされたヒゼキヤでしたが
彼はこの後また神の怒りにふれる行いをなすのでした
「しかしヒゼキヤはその受けた恵みに報いることをせず
その心が高ぶったので
怒りが彼とユダおよびエルサレムに臨もうとしたが
ヒゼキヤはその心の高ぶりを悔いてへりくだり
またエルサレムの住民も同様にしたので
主の怒りは、ヒゼキヤの世には彼らに臨まなかった」
(歴代志下32章25−26節)
病気が癒されたことで喜んでいるヒゼキヤの元へ
バビロン王の使節が手紙と贈り物を持ってやって来た時
ヒゼキヤは喜び迎えて
宝物の蔵、金銀、香料、武器など
その倉庫にあるすべてのものを彼らに見せ
家にあるものも国にあるものもすべてのものを見せました
しかし
これが神の怒りに触れたのです
神の力によって富と栄誉をきわめたヒゼキヤは
そのために傲慢になっていました
神はヒゼキヤを試みて
彼の心の中にあることをことごとく知るために
彼がどのような行動に出るかを見ておられたのです
神の働きと助けとにより得た地位と名誉と財産であっても
いつの間にかそれらが自分の力によるものと思うようになると
名誉や財産を人に自慢せずにはいられません
それは一見、神の業(わざ)を誇っているようであって
実は自分の業と思っているからです
そもそも信仰とは隠れたもので
自分の信仰の深さを自ら言い表すことはしないものですが
富と栄華とにより
自分の信仰を誇る場合があることに
わたしたちは気をつけていかなくてはなりません
人は皆、自分を大きく見せたいとの願望があるものですが
一人一人の持って生まれた”器(うつわ)”の大きさは決まっていて
それは一生を通じて変わるものではないでしょう
そういう意味では
いくら自分がもっと大きな人間になりたいと願っても
見せかけだけならともかく
本質的なものは変わらないわけです
しかし
もしそこに神の働きがあるならば
小さな器も大きく用いられるでしょうし
反対に
神の祝福がなければ
大きな器の素質も小さな考えの中にとどまって
持ち味を発揮することが難しいでしょう
その後
心高ぶっていたヒゼキヤは悔い改めたので
彼が生きている間には神の怒りが臨むことはありませんでした
「ヒゼキヤは主を恐れ、主の恵みを求めたので
主は彼らに災いを下すとお告げになったのを
思いなおされたではないか」
(エレミヤ記26章19節中の句)
こうしてヒゼキヤは神を恐れて悔い改め
自らの生涯を守られたわけですが
彼の本心は
『せめて自分が世にあるあいだ
平和と安全があれば良いことではないか』
(列王紀下20章19節)
と思っていたので
それが後のバビロン捕囚につながっていったのです
ヒゼキヤの栄華と揺れ動くその心模様からは
物質的に満たされることで起る慢心と
その人の持つ本当の姿が見えてきます
それは
人間誰もが持っている弱さかもしれません
しかしまた
どんな人であっても
神にあって心を強くし進んでいけば
そこには必ず助けがあります
その神の力を信じて
明日からの新しい週も
各々の戦いの中に恐れず出て行きましょう
信仰を持って出ていく時に神の力は動き
わたしたちはそれを見ることが出来るのです
自分の器の大きさを自覚して
神の前に低くなって歩んでいきたいものです
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