今週のみことば


2月3日

「神がアブラハムに対して立てられた約束の時期が近づくにつれ
民はふえてエジプト全土にひろがった
やがて、ヨセフのことを知らない王が、エジプトに起った
この王は、わたしたちの同族に対し策略をめぐらして先祖達を虐待し
その幼子らを生かしておかないように捨てさせた
モーセが生まれたのはちょうどこの頃のことである
彼はまれに見る美しい子であった
三ヶ月の間は、父の家で育てられたが
そののち捨てられたのをパロの娘が拾いあげて、自分の子として育てた
モーセはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ
言葉にもわざにも、力があった」
(使徒行伝7章17-22節)


本来エジプト王の命令によって殺されるはずであったモーセは
川に流されたところを王の娘によって拾われ、育てられ
エジプト人のあらゆる学問を授かりました
その後、彼は、同族であるイスラエル人を助けるため
エジプト人を殺しました
モーセは自分の手によって神がイスラエルを救ってくださることを
みんなが悟るものだと思っていました
しかし、現実はそうではありませんでした

翌日、今度はイスラエル人同士の争いを仲裁しようとしたモーセは
思いがけず彼らから拒絶され
また、パロからも命を狙われて
エジプトを逃げ出してミデアンの地に移り住みました
そして40年後
イスラエル人をエジプトからカナンの地へと導く指導者として
神によって引き出されるのです

神の導きに従って生きるモーセにも
個人的には自分の言い分や要求がありましたが
神の与える道を良しとして潔く歩むことで
彼は神の生きた言葉を授かり
イスラエル人の前で奇跡としるしを行い
民をカナンの地へと導いていきました
ところが
イスラエルの民は常にモーセに言い逆らい
神にそむいたのです

どんなに神の言葉を伝えても
どんなに目の前で奇跡のわざを見ても
喜び感謝するのはその時だけで
ひと時過ぎればすぐに不満を言い始めるイスラエルの民
もう悟っただろうと思うのにまだ悟らない
同じところをいつまでも堂々巡りしている彼らの信仰は
いつも「悟ったつもり」「教えられたつもり」「わかったつもり」でした

今わたしたちの信仰生活を省みる時も
これと同じことが多々見受けられるのではないでしょうか
困った時だけ神さまを求め
目先の問題が過ぎればすぐに自分の欲に目がくらむ・・
そんな繰り返しの堂々巡りの信仰には
どこかで終止符を打たなくてはならないのです

この使徒行伝のみことばはステパノの最後の説教であり
彼はこの後、迫害する人々によって殺されます
彼を迫害する人々は
自分たちの間違いをステパノから厳しく問い詰められ
最後はその言葉が聞こえないように自ら耳をおおって
ステパノに向かっていきました

自分の心の思い(欲)を実行することのみに熱心になっていると
自らの間違いに気づきません
たとえあとから間違いに気づいても
今度は自分の面子を取り繕うことに一生懸命で
根本的な悔い改めの心がおろそかになっていることが多いものです

耳に痛い言葉にもきちんと耳を開き
目先の欲に捕らわれず
地に足がついた確実な歩みを心がけ
目の前に起るひとつひとつのできごとを通して
冷静に今の状況を判断していきましょう

救われて今日まで
神さまからさまざまな教育と恵みを受けながら
なお感謝もできないでいるのは
何とも情けないことではないでしょうか

せっかくカナンの地まで来たというのに
勝手な思いでそこに入ることを拒否したイスラエルの民は
その後、40年間荒野を旅することになりました
ただ神の言葉に従って入りさえすればよかったものを
神の言葉ではなく
人の言葉に従い、惑わされたのです

目先のことで生涯を台無しにしてしまうことがありませんように
神さまが開いてくださる道を感謝して進んでいきましょう



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