今週のみことば
2月11日
「ダビデはペリシテ人に言った
『おまえはつるぎと、やりと、投げやりをもってわたしに向かってくるが
わたしは万軍の主の名、すなわち
おまえがいどんだイスラエル軍の神の名によって
おまえに立ち向かう』」
(サムエル記上17章45節)
イスラエル人に敵対するペリシテ人の中から
ゴリアテという大男があらわれ
イスラエル人の中から自分と闘う者を求めた
その姿にイスラエル人は恐れをなし
誰も戦いを挑もうとはしなかったが
唯一ダビデだけが志願し
一対一の戦いに出て行った
まだ少年のダビデは
サウル王が貸してくれた武具が合わなかったので
いつもの羊飼いのスタイルのまま
杖を持ち
5つの石を拾ってゴリアテの元へ行きました
そんな彼の様子を見たゴリアテは侮って
ペリシテ人の神々の名をもって呪います
しかしダビデは
イスラエルの神の名をもって立ち向かい
『きょう、主はおまえをわたしの手にわたされるであろう』
と、宣言したのでした
『また、この全会衆も、主は救いを施すのに
つるぎとやりを用いられないことを知るであろう
この戦いは主の戦いであって
主がわれわれの手におまえをたちを渡されるからである』(47節)
このダビデの言葉を聞いて向かってきたゴリアテに対し
ダビデは持ってきた石を石投げで投げました
その石はゴリアテの額に突き入り
彼はそこに倒れて滅びました
”つるぎとやりを用いない主の戦い”が
ここに成就したのです
何の武具を身にまとうこともなく
いつもの羊飼いの格好のままでゴリアテの前に出たダビデは
人の作り出したものに寄り頼まず
自分を強く見せようともせず
ただ神の力を身に帯びて
自分の命を惜しまず進んでいきました
”この戦いは主の戦い”
これは
神に対して絶対の信頼を寄せているからこそ思えることで
信仰者は常にこの姿勢に習っていくべき姿です
ダビデには
”石投げと石”という自分に与えられた武器がありました
それは本来、戦いの場では役に立ちそうもないものですが
神はそういうものを用いて
”イスラエルに神がおられることを全地に知らせる”のでした
毎日のわたしたちの戦いも
すべては神による戦いです
ダビデには石投げと5個の石がありましたが
わたしたちにはどんな武器があるでしょうか
そして
その武器を神さまはどのように用いてくださるでしょうか
人間的に考えれば
役に立ちそうなものは何も持っていないかもしれない
だからこそ神は働き
この神が生きた神であることを全地に知らせるのです
わたしたちはただ神の前に
この命が与えられていることを思い
聖書のみことばを
目に見えない武器として携え
日々の戦いに出て行きましょう
常に神から喜ばれる道を歩もうとした
昔の信仰者達の歩みは素晴らしいものです
今日のわたしたちも
もちろん自分の人生なのですから
どのように生きようが自由なわけですが
やはり人から後ろ指をさされるような姿にはなりたくない
さまざまな欲による惑わしも多い昨今
見せかけだけのものにつられていくのではなく
聖書のみことばによって正しい歩み方を教えられ
それに従って
地道に生きることが必要です
もちろん
従わないことを止める事もできませんから
みことばをないがしろにするのも自由ですが
その結果は必ず自分に返ってくること
そしてその責任は自分にあることを
よく心に留めておくべきでしょう
王として選ばれ、油を注がれながらも
ダビデは長い間サウル王から命を狙われ
逃げるばかりの日々でした
その後、責任ある地位についても
自分の力に頼るのではなく
常に神に祈って戦いに勝利をおさめています
大勇者と言われるダビデですが
常に神の前に出ることによって
平安を得てきたのでした
「誇る者は主を誇るべきである
自分で自分を推薦する人ではなく
主に推薦される人こそ
確かな人なのである」
(コリント人への第二の手紙10章17-18節)
神に選ばれたからといって
その人自身が偉いのではありません
全ての戦いの勝利を自分の手柄ではなく
神のよるものと感謝してきたダビデの姿は
わたしたち信仰者の模範です
神を誇り、その言葉に従って
神の証をあらわしていく
そういう人は
必ず神によって高く持ち上げられ
信頼を得ていくでしょう
「あなたはへりくだる民を救われる
しかしあなたの目は高ぶる者を見て
これをひくくせられる
まことに、主よ、あなたはわたしのともし火
わが神はわたしのやみを照らされる」
(サムエル記下22章28-29節)
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