今週のみことば
2月25日
「エリシャは言った
『あなたは自分の目をもってそれを見るであろう
しかしそれを食べることはなかろう』」
(列王記下7章11節)
スリヤ軍に囲まれたサマリヤの町は
大変な飢饉に陥り
人々は絶望のどん底にありました
預言者エリシャの言葉を頼りにしてきたイスラエル王も
この事態に怒りを発し
エリシャを殺そうと図ります
『この災いは主から出たのです
わたしはどうしてこの上、主を待たなければならないでしょうか』
エリシャは言いました
『主の言葉を聞きなさい
主はこう仰せられる
あすの今ごろサマリヤの門で
麦粉1セアを1シケルで売るようになるであろう』
しかし
それを聞いた王の信頼する副官は言いました
『たとい主が天に窓を開かれても
そんな事がありえましょうか』
まともな食べ物など何もない現状で
エリシャの言葉を受け入れるのは
信仰なくしては困難でした
王の言葉も、王の副官の言葉も
確かに人間の常識的には当然の思いといえるでしょう
ところが
神は人の常識を超えた業をそこになされるのでした
その頃サマリヤの門の入り口には
4人のらい病人がいました
彼らはどうせ死ぬのを待っているのなら
スリヤ軍のところへ行って憐れみを乞おうと考えます
そして立ち上がってスリヤ陣営のほとりまで行きましたが
そこには誰もいませんでした
それは、神が
スリヤ軍に対して戦車や馬や大軍の音を聞かせられたので
彼らはイスラエルの援軍が押し寄せてきたと思い込み
何も持たずに逃げていったからです
そしてそこには
たくさんの食べ物や金銀、衣服、牛、ろばなどが残されていました
『あすの今ごろサマリヤの門で
麦粉1セアを1シケルで売るようになるであろう』との
エリシャの予言は成就しました
更に
そのところへ飢えた人々が殺到したので
王の副官は彼らに踏みつけられて死にました
これもエリシャの言葉どおりでした
絶望の中でなお信仰をもち続けるのは難しいかもしれません
それでも
神に対して王や副官のような言葉を発してはならないのです
誰もが望みを失うような時であっても
エリシャは望みを捨てなかった
エリシャとて普通の人間で
わたしたちとなんら変わるところはありません
しかし
どんな時にも神に望みをおくことを忘れない姿勢が
普通の人と違うところ
わたしたちも
そのエリシャの姿勢に習う者となりたいです
絶望の中で神を忘れ自暴自棄になるなら
これから与えられる神の恵みを味わうことはできない
自分の予定と違うことが起きたとき
あるいは自分の考えとあわない言葉に対して
すぐにカッとなって冷静さを失うのは損なことです
神は懐の深い方です
そこにはいつも人知を超えたことがなされ
人知を超えているからこそ人には意味不明のことも多々ありますが
その意味はあとから必ず証明されるのです
「あなたのみ言葉はいかにわがあごに甘いことでしょう
蜜にまさってわが口に甘いのです」
(詩篇119篇103節)
神の言葉はただ字を読むだけではなく
味わうべきものです
もしそれを読んでも
『こんなことがあるはずがない』と思うなら
目の前の幸いを味わうことはできないでしょう
人は災いを通して神の生き働くことを知ることができます
それを世の中の人は
ただ単に『運が良かった』という言葉でおさめてしまいますが
クリスチャンは『運が良かった』で終ってはなりません
「あなたがはた銀を受けるよりも
わたしの教えを受けよ
精金よりも、むしろ知識を得よ」
(箴言8章10節)
「わたしはわたしを愛する者を愛する
わたしをせつに求める者は、わたしに出会う
富と誉とはわたしにあり
すぐれた宝と繁栄もまたそうである
わたしの実は金よりも精金よりも良く
わたしの産物は精銀にまさる
わたしは正義の道、公正な道筋の中を歩み
わたしを愛する者に宝を得させ
またその倉を満ちさせる」
(箴言8章17-21節
人生には様々な試練があります
そんな中にあっても信仰をかたく持ち
すべてのこと神により頼み
栄光を帰し
感謝して進んでいきましょう
<目次