今週のみことば


4月1日

「夜になり、神はバラムに臨んで言われた
『この人々はあなたを招きに来たのだから
立ってこの人々と一緒に行きなさい
ただしわたしが告げることだけを
行わなければならない』」
(民数記22章20節)

神を信じ
主の代言者と主張する占い師バラムは
イスラエルに敵対するモアブのバラク王の願いで
イスラエルを呪うように要請され
バラムはこれを如何にすべきか神に尋ねました

それに対する神の返答はこうでした
『あなたは彼らと一緒に行ってはならない
またその民を呪ってはならない
彼らは祝福された者だからである』

神から祝福されたイスラエルの民を呪うことを
神は決して許されませんでした
しかし
バラクからの報酬に目がくらんだバラムは
再度やってきたバラクの使いの要請に対して
もう一度神に尋ねもとめます

すると
次の返答は『立ってこの人々と一緒に行きなさい』
というものでした
ただし
『わたしが告げることだけを行わなければならない』
との但し書きつきで、、

翌日出かけたバラムは
本当は出かけるべきではなかったことを知ることとなります
彼の行く先には
主の使いが抜き身の剣をもって立っていました
欲に目がくらんだバラムには初めそれが見えませんでしたが
彼の乗ったロバには見えていました

その後
神の前に悔い改めたバラムは
神の命令によってバラクのもとへ出向きます
そこでイスラエルを呪うために招かれたバラムの口から出たのは
呪いではなく祝福の言葉でした

どんなに人が色々な思いを抱いていても
最後は神の御旨のみが成る
それでも人はしばしば己の欲に負け
自分の思いのままに神を動かそうとするのです
バラムは神を信じる者でしたが
報酬が欲しいがために
神からバラク王の元へ行く許可を得ようとしていました

祝された民であるイスラエルを呪いに行くこと
それがいけないこととわかっていても
どうしても押さえ切れない思いが湧き起こってきた時
人はそれにどう立ち向かえばいいのでしょうか

バラムの揺れる胸中は
常に自分の内側から湧き起こる欲と戦うわたしたちと同じです
何が正しくて何が間違いなのか知っていながら
いつしか欲を正当化しようとしている自分がいる・・

救われたわたしたちもまた
すでに神によって恵まれた民です
”恵まれた”という基準をどこに置くかは人それぞれですが
今日一日生きて暮らせるこの感謝を
心のうちに常に持っていれば
感謝は喜びを生み、平安を生むでしょう

神の前にあっては
ただ金銭的に豊かな人を恵まれた人というのではなく
神よりの平安を得て
日々を心豊かに生きている人を
本当に恵まれた人と呼ぶのです

「あなたがたはたしかに彼に聞き
彼にあって教えられて
イエスにある真理をそのまま学んだはずである
すなわち、あなたがたは
以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て
心の深みまで新たにされて
真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである」
(エペソ人への手紙4章21-24節)

この新しき人を着るために
洗礼と聖霊のバプテスマによって生まれ変わった後は
聖書のみことばに堅くたって
元の情欲に迷う日々からはなれ
心の内側の戦いに祈りによって勝利していかなくてはなりません

しかしまた
このような教えを愚かと唱える人もあります
神の救いや聖書のみことばなどは
それがどうした?!と言う人にとってはどうでもいいことで
信仰そのものをばかばかしいと思うものです

「この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった
それは、神の知恵にかなっている
そこで神は、宣教の愚かさによって
信じる者を救うこととされたのである」
(コリント人への第一の手紙1章21節)

みことばの中にも
わかり辛く、つまづきとなるような箇所もありますが
教えられたらやってみることが重要で
それが従うという事です
神の言葉は
益がないと思う人には益なく
益があると思う人には
大きな力となります

バラムのように
わたしたちの前には
この世の欲を選ぶのか、神の祝福を選ぶのか
二つの道が用意されています

わたしたちは常に祝福の道を選択しなくてはならない
そのためにも
いざという時、己の欲を捨て
神の喜ばれる道を選ぶべく
日常的に心を鍛えておく必要があるのです

「自分から出たことを語る者は
自分の栄光を求めるが
自分をつかわされた方の栄光を求める者は真実であって
その人の内には偽りがない」
(ヨハネによる福音書7章18節)

自分の思いや考えを
自分の都合の良いように語る人は
結局自分の栄光を求めているに過ぎません
自分の欲が満たされて
自分が楽しければそれでいい
そのためには
魂を売るようなことさえもしかねないでしょう

一方
神の栄光を求めるならば
その人の心には邪心がありません
願わくばわたしたちもこのようになりたいものです

人生が全て自分の思い通りに行く人はまずいません
流れていくのは神の定めた道で
それが一番幸いな道

神にあってなされることは
全てが幸いに結びついていく
わたしたちはその希望の上に生きています
人が馬鹿らしいと言う神の言葉が
現実にどのようになっていくのか
”宣教の愚かさ”がどのような救いに結びつくのか
実際にそれを味わいながら体験していきたいものです

誰もがもっている心の弱い部分を克服するために
常に祈っていきましょう




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