今週のみことば


5月19日

「イエスは彼らに言われた
『なぜ、そんなにこわがるのか、どうして信仰がないのか』」
(マルコによる福音書4章40節)


イエスと弟子が一緒に舟で向こう岸へ渡ろうとした時
急に嵐が起って舟が沈みそうになりました
ところが、その時イエスは寝ていたので
パニックになった弟子たちは言いました
『先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいになられないのですか』
するとイエスは起き上がり
風と海に静まるよう命じたので凪になりました
そして弟子たちに言いました
『なぜ、そんなにこわがるのか、どうして信仰がないのか』

この時弟子たちはすでにイエスとともに行動しながら
数々の奇跡を見てきたはずですが
自分たちの身に危険が迫ると気が動転し
祈るのではなくイエスに詰め寄ります

一方、使徒行伝16章25節においては
牢獄に捕らえられたパウロとシラスが
そこで神に祈り、讃美を歌い続けていました
すると、突然大地震が起り
牢獄の土台が揺れて戸が開いたのです

同じ舟にイエスが乗っていてもパニックになった弟子たちと
牢獄の中でも希望を捨てず祈ったパウロたち
今わたしたちはイエスのお姿を見ることはありませんが
パウロたちと同様に聖霊を内にいただいていますから
どんなところにおかれてもイエスと共にあることを思い
希望をもって祈り続けるべきなのです

『なぜ、そんなにこわがるのか、どうして信仰がないのか』
これから自分がどうなっていくのか
その運命の行方を誰しも心配するものではありますが
ただ嘆いたり、前後不覚になるのでは
その信仰のなさがイエスを悲しませることになるでしょう

牢獄の中で祈り讃美するパウロたちの姿は
どんなところでも置かれた所を天国とし
そこで神をあがめつつ生きる信仰生活のあり方を表しています
どう考えても希望などありそうもない状況の中
突然の大地震で脱出の折を得るとは
人の思いをはるかに越えた世界であり
だからこそわたしたちは
自分で結果を決め付けて嘆くべきではありません

舟が沈みそうになった時
イエスが寝ていることに文句を言った弟子たちは
厳しい状態に置かれた=もうダメだ、との思考回路になっており
今、わたし達の日々の生活にも
これと同じ心理が当てはまることは多々あるのではないでしょうか

このような間違った思考回路は捨てて
自分の中で神の働きがなされやすいように
心の環境を整えていきましょう
ただ不平不満を言っていたら
神を讃美することもお祈りもできません
自分の我を押し通すことよりも
神のご計画を受け入れる気持ちをもって
信じて従っていきたいものです

「しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ
われわれの不義のために砕かれたのだ
彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え
その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」
(イザヤ書53章5節)

「キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった
ののしられても、ののしりかえさず
苦しめられても、おびやかすことをせず
正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた
さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために
十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた
その傷によってあなたがたはいやされたのである」
(ペテロの第一の手紙2章22-24節)


イエスの十字架上で流した血にあずかる洗礼を受け
聖霊をいただいた者は
その意味の重要性を心にとめ
これからの信仰生活によって「義に生きる」ことと
日々のさまざまな戦いをイエスと共に闘いつつ
あらゆる癒しを得ていくことが大切です

一時的に厳しいところに置かれることは
その試練によって心が鍛えられ
自分の間違いを正し
歪んでいたものがまっすぐになる機会ともなります
”いやされる”といえば病気が治ることを連想しますが
人間には肉体のみならず
癒されなくてはならない部分が色々あるのです

「だからわたしたちは落胆しない
たといわたしたちの外なる人は滅びても
内なる人は日ごとに新しくされていく
なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて
永遠の重い栄光を
あふれるばかりにわたしたちに得させるからである
わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ
見えるものは一時的であり
見えないものは永遠に続くのである」
(コリント人への第二の手紙4章16-18節)


どんなに時代が変っても
神の言葉は変わりません
救いにあずかり、信仰生活の戦いをイエスと共に闘いながら
その経験を通して多くのことを教えられ
神に喜ばれるところの
本当の信仰を身につけていきましょう




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