今週のみことば


6月2日

「あなたがたは地の塩である
もし塩の効き目がなくなったら
何によってその味が取りもどされようか
もはや何の役にも立たず、ただ外に捨てられて
人々にふみつけられるだけである
あなたがたは世の光である
山の上にある町は隠れることができない
また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない
むしろ燭台の上において
家の中のすべてのものを照らさせるのである
そのように
あなたがたの光を人々の前に輝かし
そして
人々があなたがたのよいおこないを見て
天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」
(マタイによる福音書5章13-16節)


塩は人間にとって重要なものですが
それは塩としての味(効力)がなければ
何の役にも立たないものです
また
光はまわりを照らす存在であり
わたしたちクリスチャンは「地の塩」「世の光」として
自らの行ないを通して神を証する存在であるべきことが
ここでは教えられています

このように
神はわたしたちに重要な塩としての効力を与え
まわりを照らす光を与えてくださるわけですが
それはあくまでも神によるものであり
わたしたち自身が自ら光るのではありません

自ら光ろうとすることはかえって罠に陥る道です
その心の中は少なからず
『わたしがやってやる』という気持ちがあり
結果的に上手くいけば
『どうだ!』と自らを誇ることになりかねないからです

わたしたちは神の栄光を証するために
神より光を与えられ
それを更にまわりへと輝かせるために
きれいに磨かれる必要があります

その時、磨かれるべき場所は
表の目立つところではなく内側=心です
いかに格好よく見えるかということにこだわるのは
ただ自分の栄光を求めているに過ぎません
金銭や地位、名誉等に関する自分の成功話を自慢することで
神の栄光を表したと思うのは大きな勘違いです

「地の塩」「世の光」になるということは
わたしたちに触れる人が
何らかの形で神さまの存在や働きを感じ
それを素晴らしいと思う
そんな存在になることを言っています

しかし
単なる人の自慢話を聞いて心豊かになるでしょうか
そして
そういう人に触れることで幸せを感じるでしょうか
結局
自分が光ろうとすることは傲慢につながり
本当の意味で神を証することはできないのです

「人はくじをひく
しかし事を定めるのは全く主のことである」
(箴言16章33節)


人生はくじを引くようなものであり
一見、当たりやハズレがあるようにも見えます
ともすれば
自分の人生はハズレではないかと思えるようなこともあるでしょう
しかし
神にあればその道こそ一番幸いな道
どんな道であったとしても
そこで神を見上げて黙々と歩む人生に神の光は輝き
辛い中でも平安に生きる人の姿が
神を証するのです

人は光を失うと道に迷います
神の光を暗くするような歩み方ではなく
いよいよ信仰を堅くし
正しい道を着実に歩んでいきましょう

「主の恵みふかきことを味わい知れ
主に寄り頼む人はさいわいである」
(詩篇34篇8節)

「『わたしは大いに悩んだ』と言った時にもなお信じた」
(詩篇116篇10節)


日々お祈りしつつも
一体これでいいのか・・?と悩むこともあります
それでも
不安に思いつつもなお信じていく
いにしえの信仰者もみな悩みと不安をかかえつつも
なお神により頼んで恵みを得てきました

「あなたがたはいのちの言葉を堅く持って
彼らの間で星のようにこの世に輝いている
このようにして
キリストの日に、わたしは自分が走ったことがむだでなく
労したこともむだではなかったと誇ることができる」
(ピリピ人への手紙2章15-16節)

信仰生活というのは
なにか空しいことを日々やっているように思われ
目に見えるパッとした派手なことでもなければ
これの何が神の栄光なのか?とも思うこともあるでしょう

しかし
金銭的に豊かで成功者のように見える人に
実は心の貧しく寂しい人があることを思うと
「主の聖徒よ、主を恐れよ
主を恐れる者には乏しいことがないからである」

との、みことば通りに
必要なものは必ず与えられ
広い意味で豊かにされる希望が与えられます

「悩みの日にわたしを呼べ
わたしはあなたを助け
あなたはわたしをあがめるであろう」
(詩篇50篇15節)


いかなるところにあっても
常に神を信じ、求め、祈り
その光を世に輝かせる者として
日々の信仰生活を希望をもって歩んでいきましょう



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