今週のみことば


7月21日

「その時カレブはモーセの前で民をしずめていった
『わたしたちはすぐにのぼって攻め取りましょう
わたしたちは必ず勝つことができます』
しかし彼とともにのぼっていった人々は言った
『わたしたちはその民のところへ攻め上ることはできません
彼らはわたしたちよりも強いからです』」
(民数記13章30-31節)


カナンの地での40日間の偵察を終えた人々は
イスラエルの民の前でその地の様子を報告します
その地は本当に豊かなところではあったが
大きくて強い民が住んでいて
とても勝つことなどできそうもないと

そんな中
カレブはすぐに攻め上るべきだと主張しますが
偵察隊はカナンの地のことを悪く言いふらしたので
イスラエルの人々は動揺して
エジプトにいた方が良かったとつぶやき始めます

待望の出エジプトからここに至るまで
神はイスラエルを導き、多くの奇跡をもって助けてきたというのに
この民はいつまでも神を信じることがない
そのためにイスラエルの民は
その後40年間荒野をさまようこととされたのでした

何のためにエジプトを出たのか
一体誰がそれを願ったのか
イスラエルの民はその原点を忘れて
試練がくるとすぐに不安になり
神に対して不平を言うことを繰り返しました

わたしたちの人生においても
振り返ってみると
さまざまな試練の中にも必ず神の助けがあって今があります
ひとつひとつの試練を通る時
試練の克服によって信仰が増していけば
次の試練にも対処できるのですが
そこで神の言葉ではなく人の言葉を信じていると
迷いや動揺が生まれ
前へ進むことができなくなってしまいます

信仰生活において
神ではなく人を見ていると必ずつまづきが生じますから
人の言葉に左右されるのではなく
神の言葉、聖書がどう語っているのか
常にそれを基準としていくことが大切なのです

上手くいっている時だけ感謝し
思うように行かなければ神を否定する
そんないつまでも懲りないイスラエルの民は
根本的に神を土台とした生き方を学ぼうとしておらず
ただ自分に都合のいいことがなされればそれでいいという
自分の欲や思いが中心の生き方であったため
なかなか本当の信仰が確立しないままなのでした

そのため人の噂に動揺し
豊かなカナンの地と共に大きな人ネピリムの存在を見せられると
ネピリムの方にばかり目が向き
恐れ、不信仰を起こし
神を離れてエジプト(世)へ戻ろうとしたのです

人間には
自分より強そうな人を見ると必要以上に恐れ
弱そうな人を見ると侮る傾向があります
こういう感覚そのものも
神を恐れ、敬い、生きる基としていくことにより
変えられていかなくてはならないでしょう

また
欲しいものを手に入れた時には一時的に満足するものの
すぐに次の欲望が湧いてきて
欲には限りがありません

「その土台は何の上に置かれたか」
(ヨブ記38章6節)


欲を追求する生き方の土台は世です
ああなりたい、こうならなくてはと
常に満足感がなく不安で
人を見ては動揺しサタンに心をとらえられている

一方で
神を土台として生きることは
確固たる信仰を身につけることとなり
その信仰に対して神は報いてくださいます

とは言っても
この世で生きている限り
すべての欲を捨てて心から神に従っていくのは
現実には非常に難しいことでしょう
ただ
”ごりやく信仰”をしていたのでは
長く信仰生活を続けても大切な部分がつかめません
欲と神とは相容れることはないからです

信仰生活の中には
ひとりひとりが整えられるために
色々な教育や試練がついてきます
これは
間違ったことをしたからバチが当たるというものではなく
神は如何にもして人が良くなるようにとの心で
忍耐を持ちながら教育してくださっているわけです
バチと教育とでは主旨が違い
教育はあくまでもその人が良くなることが前提にあるのです
では、その教育の試練を通り過ぎるために
わたしたちはどうすればいいのでしょうか

エゼキエル書47章3-6節には
だんだん深くなる水の中を歩いてわたる様子が記されています
くるぶしやひざ、腰までの水は
何とか自分の力で歩いて渡れますが
それ以上の深さになるともう自分で歩くことはできません

この水はどういう水かといえば
以下のように記されています
「おおよそこの川の流れるところでは
もろもろの動く生き物が皆生き
また、はなはだ多くの魚がいる
これはその水が入ると海の水を清くするためである
この川の流れるところでは
すべてのものが生きている」


すべてのものを清くし、すべてのものを生かす水
これは神を表しており
この水の流れに身をゆだねて生きることは
すなわち神を土台として生きることです

人の思いとは別のところで
神のご計画は常に進み
一見乗り切れそうもない試練の中にあっても
神を信じ、祈って進む者の上には
必ずそこを通り過ぎる力と知恵が与えられます

それはその人が誉められるためではなく
神が誉められるため
神の力を世に示すために
どんなところからでも幸いへと導かれていくのです

ならばわたしたちは
如何なる時にも
置かれた持ち場立場にあって淡々と日々を歩み
生命の水に導かれて
祝福ある人生を進んでいきましょう




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