今週のみことば
7月28日
「イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた
『この群衆がかわいそうである
もう三日もわたしと一緒にいるのに
何も食べるものがない
しかし、彼らを空腹のままで帰らせたくはない
おそらく途中で弱りきってしまうであろう』」
(マタイによる福音書15章32節)
イエスがガリラヤの海辺に行き、山に登って座ると
大勢の群衆が
足、手、目や口などが不自由な人々を連れてきましたが
イエスは彼らを癒されました
その様子に群衆は驚き、神を崇めます
せっかくイエスの元に集まってきた群衆を
空腹のまま去らせたくはない
しかし
そこにあるのは7つのパンと小さな魚が少しだけです
イエスはそれらを取り、感謝してさきました
すると
一同のものは分け与えられた物を食べて満腹になり
あまったパンくずを集めると7つのかごにいっぱいになりました
この時食べて満腹になった人々は
女と子どもを除いて4千人もいたのです
群衆に連れてこられた”足、手、目や口などが不自由な人々”は
イエスの元に来ることで癒されていきましたが
ここでは肉体の癒しだけではなく
心が癒されることも教えられます
イエスを知らなかった時には
神と共に歩む人生ではなく
その手で神をつかむこともなく
目は神にむいていませんでした
ところが
そんな彼らもイエスの元に来ることで心が変えられ
それまで世の価値観と欲の中でさまよってきた人生が
神に向く人生へと転換されていくのでした
こうして信仰生活をはじめる彼らは
飢えたままでいるわけには行かず
食べ物が必要でした
せっかく救われても
神よりの霊の食べ物がなければ
その信仰生活も途中で疲れきってしまうでしょう
神の元(教会)に来る者には
霊の食べ物(みことば)が用意されており
心の葛藤や寂しさから開放される術が与えられ
心満たされて帰ることができるのです
見るところわずかな食べ物が4千人を養ったように
神のみことばは如何にも力がないように見えて
実際には多くの人々の心を満たし養っていくのでした
神の業を目の当たりにし
食事を与えられて満たされ
群衆はさぞかし満足したことでしょう
しかし
その中の一体何人が本当に神の元に帰ってくるでしょうか
神はわたしたちを決して飢えたまま放ってはおかれません
ところが
人の望みが神の与えるものと違う場合には
そのままでは満足しないこともあるでしょう
現実には自分の思い通りではなくても
神に心満たされて平安に生きることはできるのですが
ここから先、いかに神に対して心を開いていくのかは
個人にゆだねられた問題です
たとえ
多くの人々がイエスの奇跡にあずかっても
神に対して心を開くかどうかは別問題なのです
「それからイエスは弟子たちに言われた
『だれでもわたしについてきたいと思うなら
自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい
自分の命を救おうと思う者はそれを失い
わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう
たとい人が全世界をもうけても
自分の命を損したら、なんの得になろうか
また、人はどんな代価を払ってその命を買いもどすことができようか』」
(マタイによる福音書16章24-26節)
誰でも自分で背負っている十字架(問題)があるものです
これさえあれば、あるいは、これさえなくなればと
自分が楽になるために必死で求めているうちは
かえって自分が辛く苦しくなり
自分の思いを捨て、欲を捨て
すべてを神にゆだねておまかせで行く時に
本当に平安に生きる道が見えてくるのです
どうやら、神さまというのは
ちょうどいい時にちょうどいいだけのものを与えてくださり
有り余るほどのものは与えられないようです
もし有り余るほどのものを求めるなら
人間的に無理をすることが必要となるでしょう
金銭的な豊かさを求めるあまり間違った道に走ったり
地位や名誉を求めるあまり
自分を大きく見せることに疲れ果て、かつ多くの犠牲を伴うなど
それらがどういう結果をもたらすのか
冷静に考えてみることが大切です
『だれでもわたしについてきたいと思うなら
自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい』
わたしたちが神に従って歩むというのはどういうことなのかは
このみことばに集約されているわけですが
現実にはここが非常に難しく
とても人間の力だけではできそうもありません
だからこそ
わたしたちには神の力が必要で
神の元に集って心が癒され、かつ満たされることと
日々の祈りが求められているのです
自分の心の中で
あれも譲れない、これも譲れないとこだわっていると
結局大切なものを失ってしまいます
人は年をとるほどに弱いところも増えてきて
ますます思うようにはならなくなるものですから
自分の生き様を振り返りながら
失敗も成功もすべてを生きた証として受け入れ
迷いや間違いを正しながら
しっかりと信仰をつかんでいきましょう
「恐れるな
わたしは初めであり、終りであり
また、生きている者である
わたしは死んだことはあるが
見よ、世々限りなく生きている者である
そして、死と黄泉とのかぎを持っている」
(ヨハネの黙示録1章17-18節)
わたしたちの信じる神、イエスはこういう方です
すべての初めであり終りであり
死に打ち勝ち、限りなく生き
信じる者を救い、生かしてくださる
そのことに心から感謝し
希望をもって新しい一週間を踏み出していきましょう
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