今週のみことば


8月5日

「わたしは植え、アポロは水をそそいだ
しかし成長させて下さるのは、神である
だから、植える者も水そそぐ者も
ともに取るに足りない
大事なのは
成長させて下さる神のみである」
(コリント人への第一の手紙3章6-7節)


信仰の世界において
指導的立場にある者を
神と等しいかあるいはそれ以上として崇拝する傾向は
昔も今もよくあることです
信仰の対象が目に見えない神さまであるよりは
実際に声をかけてくれる目に見える人間の方が
ずっと親近感もわくでしょうし
頼りがいがあると思えるのです
しかし
そのような信仰スタイルは間違いであることを
聖書ははっきりと教えています

「あなたがたの間に、ねたみや争いがあるのは
あなたがたが肉の人であって
普通の人間のように歩いているためではないか
すなわち、ある人は『わたしはパウロに』と言い
『わたしはアポロに』と言っているようでは
あなたがたは普通の人間ではないか
アポロはいったい何者か
また、パウロは何者か
あなたがたを信仰に導いた人に過ぎない
しかもそれぞれ
主から与えられた分に応じて仕えているのである」
(同章3-5節)

イエスのご昇天後
その福音を伝える使命を与えられた使徒たちは
各地で伝道活動を行っていました
イエスキリストの名による洗礼をほどこされ
聖霊を与えられた人々は
その後は唯一の神のみを拝し
ねたみや争いに中にある普通の人々のようにではなく
神につく者との名にふさわしく歩むべきでありましたが
現実には
今でいうところの○○派に属すといった感覚で使徒を頼りとし
普通の人(肉の人)の域を脱することができないままでした

使徒たちは確かに神より使命を与えられ
その任務に忠実に歩んでいたわけですが
彼らが一生懸命に自分たちではなく神のみを崇めるようにと諭しても
人々にはなかなかその意味が理解できなかったのです

このように
現代においても
牧師に依存する信仰は本当の信仰ではありません
牧師はみな
信者の心の成長を願って水をそそぐ労を惜しみませんが
実際に成長させて下さるのは神ご自身であり
牧師が偉いからという事ではないのです

牧師はどういう存在であるかといえば
「あなたがたを信仰に導いた人に過ぎない
しかもそれぞれ
主から与えられた分に応じて仕えているのである」
とあるように
それぞれ神から与えられたものをもって
勝手な方向へと迷い行く羊を正しい方向へと導く者で
その個性もさまざまですが
どのような人であっても人間であることにはかわりありません

ところが
牧師自身に特別な力があるかのような錯覚を持ち
神ではなく
その牧師の力を頼りとする人が後を絶たないのも事実です
わたしたちはもうひとたび
この大きな信仰の過ちについて
考えなくてはならないでしょう

人には各々みな心がありますが
一同その心の思いを神に向け
信仰の一致を保って進むところに
本当の平和は存在します

今日一日生かされてきたことに感謝し
明日からの日々も神にゆだね
試練の毎日であっても
なお希望を捨てず
感謝の心を忘れずに進みたい

感謝のないところに信仰は成立しません
世の中の価値観に迎合すると
目先のことしか目に入らなくなるので
不安と不満から常につぶやきが生れます

信仰は
年数によって量られるものでもなければ
指導者が誰かによって決まるものでもありません
あくまでも信仰は個々の歩み方によるもので
その人が一体何を見ているかによるのです

自分の心の中で”属する相手”を間違うと
道を間違えてしまします
わたしたちはみな神に属する者
神を見ている者です
こうして神を見上げている者は
どのような時にもダメになってしまうことはないのです

「そして、希望は失望に終ることはない
なぜなら
わたしたちに賜わっている聖霊によって
神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」
(ローマ人への手紙5章5節)

わたしたちはこれからも
神さまをまっすぐ見て進んでいきましょう
斜めに見れば距離が遠く
正しく見ることもできないからです
そのために
人の言葉ではなく
神のみことばを頼りとし
神が与えてくださる祝福の約束を必ずなると信じて
喜びと感謝のうちに歩んでいきましょう



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