今週のみことば


8月11日

「ペテロが言った『金銀はわたしには無い
しかし、わたしにあるものをあげよう
ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい』」
(使徒行伝3章6節)


ペテロとヨハネが宮の美しの門を通った時
生まれながらにして足のきかない男が座し
施しを乞うていました
彼らはその男に対して『わたしを見なさい』と言ったので
男は何かもらえると期待して注目しました
しかし
そこでペテロが彼に与えたものは
彼が期待していた金銀ではなく
立たない足を癒す奇跡の業でした

彼がここで日々施しを乞うているのは
足がきかないためであり
その病から開放された彼は躍り上がって喜び
神を賛美しました

お金は人の生活の基となるものですから
目先の生活の支えのためには不可欠のものですが
それは彼の生活を根本から改善するものではありません
一時的に施しを受けても使えばなくなってしまい
また元の状態に戻ってしまうのです
結局
病んだ部分が根本から癒されなくては
その人生は幸いなものになっていきません

多くの人は目先のご利益を求めて信仰しようとします
ですから
その求めているものが『(金銀は)わたしにはない』と言われたら
人は少なからず失望するのではないでしょうか
自分が望んだ方向とは別の道が開かれた場合も
この神さまに従っていてもダメじゃないかと
不信仰におちいってしまうかもしれません

そんな状態にあっても
『ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい』
との言葉に従い
神に希望をおき、信仰をもって進むなら
その人の抱える病んだ部分(間違った価値観や思想)が
根本から癒されていくのです
もし
自分には金銀しか用がないと決めていれば
根本の癒しは与えられないでしょう
自分の望みどおりになることを第一とするご利益信仰の限界が
ここにあるのです

『そして、イエスの名が、それを信じる信仰のゆえに
あなたがたのいま見て知っているこの人を強くしたのであり
イエスによる信仰が、彼をあなたがた一同の前で
完全にいやしたのである』
(使徒行伝3章16節)


信仰の目標は
こうしてそれぞれの欠けた部分が完全に癒され
世の中のものに心を奪われていた人も
その目が神に向くようになり
神に近づき、神に習う者として
自分の人生が元から正されていくところにあります

ペテロとヨハネは神癒の業をなしたことで人々の注目を浴びますが
彼らは世の学者から比べると俗に言う大した人ではありません
ところが、そんな普通の人であった彼らも
聖霊を受けてからは俄然強くなり
本当の信仰を身につけていきました

「わたしはこの国民と異邦人との中からあなたを救い出し
あらためてあなたを彼らにつかわすが
それは彼らの目を開き
彼らをやみから光へ
悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ
また、彼らが罪の許しを得
わたしを信じる信仰によって
聖別された人々に加わるためである」
(使徒行伝26章17-18節)

「こうしてあなたがたは、神に愛される子どもとして
神にならう者となりなさい」
(エペソ人への手紙5章1節)


人の心は惑わされやすく
自分のやっていることが即お金に結びつくことを願って
わざわざ無駄なことをやってみたり
冷静に考えればわかるようなことでさえ
判断ができなくなることもよくあることです

そんな闇の中に引き込まれるような状況を断ち切り
自分の弱さを克服すべく祈って
聖霊の力によって心を強くせられ
自分の中の間違っている部分を冷静に見つめながら
潔く悔い改めていくことは大切なことです

悔い改めというと
何か偽善的なものを連想させますが
神の求める悔い改めは口で言うだけのものではなく
心から神に対して頭を低くし
自分が根本から変えられていくことを願うものです

間違えてはいけないことは
わたしたちは立派だから神に選ばれたのではなく
病んでいるから、救われなくてはならないから
選んで救っていただいたのです

神のあわれみによって生かされているこの身を思う時
神の前に自分の至らないところを悔いながら
(かといって卑屈になるのではなく)
日々感謝して歩んでいくことの大切さがわかります

目先の欲に惑わされることなく
本当に大切なものは何かを教えられ
ひとりひとりの歩みが整えられていきますように
共に祈っていきましょう




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