今週のみことば


8月19日

「今わたしは、人に喜ばれようとしているのか
神に喜ばれようとしているのか
あるいは、人の歓心を買おうと務めているのか
もし今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば
わたしはキリストの僕ではあるまい」
(ガラテヤ人への手紙1章10節)


ガラテヤ人への手紙は
1章6節に「あなたがたがこんなにも早く
あなたがたをキリストの恵みの内へお招きになったかたから離れて
違った福音に落ちていくことが
わたしには不思議でならない」
と記されているように
キリストの福音が早くも人によって曲げられている事実に
パウロが愕然としているところからはじまります

パウロはイエスから直接啓示された福音を
ガラテヤ人に伝えたにもかかわらず
彼らはユダヤ人を恐れ
せっかく与えられたキリストによる自由を離れて
再び律法につながれようとしていたのでした

「律法によって義とされようとするあなたがたは
キリストから離れてしまっている
恵みから落ちている
わたしたちは、御霊の助けにより
信仰によって義とされる望みを強くいだいている
キリスト・イエスにあっては
割礼があってもなくても問題ではない
尊いのは愛によって働く信仰だけである」
(ガラテヤ人への手紙5章4-6節)

御霊の導きによって生きる者は
不品行、汚れ、偶像礼拝、敵意、争い、ねたみといった類の
肉の働きから離され
愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、柔和といった
”御霊の実”を結ぶ者となるのです

しかし
洗礼と聖霊を受けて救われた者であっても
なお人に喜ばれようとしたり
人の歓心を買おうとするなら
せっかくの神の恵みからは落ちてしまうでしょう

かつてガラテヤ人に対してパウロが嘆いたごとく
今日わたしたちの周りにも
福音を曲げ、人の心を惑わす存在があります
人は弱いので
色々なことがあるとすぐに迷いが来て心揺らぐものですから
そこで正しい判断ができるように
常に祈らなくてはならないわけです

人に喜ばれようとすることは
自分の面子を守り、自分の心を満足させるためでもあるでしょう
それはある時にはわざとらしく
かえって不信感を抱かせる場合もあります

そのように
自ら人に媚びることをしなくても
神に喜ばれようとする人は
その持っている良いところを神によって用いられ
立派に装っていただけるのです

お祈りをするのは
弱い人のすることだと言う人がありますが
目に見えない神さまに希望をもつことは
毅然とした潔さ(信仰)がなくてはできることではありません

わたしたちは
人の言葉に惑わされず
神の福音をしっかり受け止めて
神の前に正しく歩む者となりたいです
人の心は速やかに移り変わり
あやふやな土台からの言葉は
良い結果を生み出しません

人の間では名のない者でも
神にその名を覚えられる人は幸いです
人生に不安がつきものなのは誰しも同じですが
神に希望を置き
信仰をもって日々の歩みを進めていきましょう

何であれ
神がわたしたちを愛してくださっていることは確かであり
すべてのことは神の栄光に結びつくように
わたしたちを勝利へと導いてくださるのです




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