今週のみことば


8月25日

「主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んで言った
『立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって呼ばわれ
彼らの悪がわたしの前に上ってきたからである』
しかしヨナは主の前を離れてタルシシへのがれようと
立ってヨッパに下って行った
ところがちょうど、タルシシへ行く船があったので
船賃を払い、主の前を離れて
人々と共にタルシシへ行こうと船に乗った」
(ヨナ書1章1-4節)


預言者でありながら神の命令に背いて逃げ出したヨナでしたが
やがて船は神が起こされた大風で沈みそうになります
この災いがいったい誰のせいで来ているのか
船に乗っている人々はくじを引きます
するとくじはヨナに当たり
彼は自分が神の命令に背いたことを白状しました
そして、自らを海に投げ出すよう願い出たのでした

海に投げ込まれたヨナの前に
神は大きな魚を備えていて、彼を飲み込ませました
その魚の腹の中でヨナは3日3晩祈ります
悔い改め、再び陸地に吐き出されたヨナは
今度こそ神の命令に従ってニネベに行き
『40日を経たらニネベは滅びる』と言って回りました
すると人々はヨナの言葉を信じ
王からすべての人、家畜にいたるまで荒布をまとって神に祈り、
悪い道を離れて悔い改めたので
神は災いをくだすことを中止されたのでした

ところが、これを見たヨナは面白くありません
こういう結果になるなら何も自分がここに来る必要はなかったのではないか
神の御心がわからないヨナは怒って訴えます
『どうぞ今わたしの命をとってください
わたしにとっては、生きるよりも死ぬほうがましだからです』

その後ヨナは、ニネベの町の今後の成り行きを見極めようと
小屋を建ててそこに住みました
神はヨナを暑さから救うためにトウゴマを生えさせて日陰を作ったので
ヨナは涼しいと大いに喜びましたが
翌日には神は虫を備え、トウゴマは枯れてしまいます
さらに神の備えた暑い東風と照りつける太陽がヨナを悩ませたので
彼は再び『生きるよりも死ぬほうがわたしにはましだ』と嘆きます

怒りに満ちた彼に神は言われました
『あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びた
このトウゴマをさえ惜しんでいる
ましてわたしは、12万あまりの右左をわきまえない人々と
数多の家畜とのいるこの大きな町ニネベを惜しまないでいられようか』
(ヨナ書4章10−11節)

実に人間的な預言者ヨナの姿は
わたしたちのひな形であり
神を信じつつも従いきれない心の中を表しています

ヨナにとってのニネベ行きは大変な試練でした
あの大きな町で『40日を経たらニネベは滅びる』と言って回ることでどうなるのか
その先が読めないだけに不安はつのります
そこで神を信じて踏み出す信仰があれば良かったのですが
残念ながらヨナは従えませんでした

そんなヨナにも
救いと悔い改めの機会が与えられます
荒海に投げ出されても神の備えた魚に飲み込まれ
やがて陸地へと運ばれたのです
試練の中にあっても必ず救いの手は差し伸べられ
進むべき道に向かって押し出されていくのでした

心配していたニネベの人々の反応ですが
彼らは素直にヨナの言葉を受け入れて悔い改めました
ここでヨナの働きは充分役に立っているわけですが
彼にとっては
その結末が自分の計画とは違っていたので面白くありませんでした
どこまでも人間的なヨナです

神の御心は通常許しの方向へ向いており
この時もやはりニネベの町は滅ぼされなかったことを
神の御心を知っていればヨナも理解できたはずです
しかしヨナは主の前を離れてタルシシへのがれようと」するほど
自分が高くなっていたのでしょう

「わたしは自分に与えられた恵みによって
あなたがたひとりびとりに言う
思うべき限度を越えて思い上がることなく
むしろ
神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって
慎み深く思うべきである」
(ローマ人への手紙12章3節)


たとえ預言者であっても
神の前にはどんなに小さな人間であるかをヨナは気づいていない
自分がどれほど小さな存在であるかがわからないことで
人は傲慢になり、しばしば道を誤るのです

また、どんなに神の助けを受けてもすぐに忘れて
その心には感謝がありません
ヨナは自分の都合のいい時には感謝しますが
感謝を常にあの時この時と「点」でしかとらえていないので
その間の日々には感謝を感じていないのです

このように
人生の花の部分にしか目がとまらない信仰スタイルでは
ポツリポツリとしか恵まれていないように感じるのですが
実は人生はひとつの帯のようにつながっていて
そこに起こることは良いことも悪いこともすべて必要で
ふと振り返ってみるときに
悪いことも幸いに変えられていることに気づきます

人生はひとつしか選べないので
もっと他の道があるような気がしてキョロキョロすることもあるでしょう
一体なにが幸いなのかは人には図りがたく
すべては神にゆだねて正しい道を選んでいかなくては
”魔が差した”というような状況に陥ることも多々あります
もし惑わしがきた時にも
”この神は心を見る神である”ことを知っていたら
間違った道にあえて踏み出すことはできません

いろいろなところで人は間違いを犯し
恥をかきながら、教えられ、生かされています
さまざまな試練と向き合いながら
そこを神と共に通り過ぎることで
わたしたちの信仰も成長していきます

ここまで生かされてきたことへの感謝を忘れず
自分がいかに小さいものであるかの自覚をもって
与えられた道を歩んでいきましょう




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