今週のみことば


8月26日

「彼らがイエスを引き渡したのは
ねたみのためであることが
ピラトにはよくわかっていたからである」
(マタイによる福音書27章18節)


祭りの時になると、総督は
群衆が願い出る囚人ひとりを許す慣例がありました
捕らえられたイエスについて調べても
何の罪も見出せない総督ピラトは
これはイエスに対して
祭司長や長老たちがねたんでいるに過ぎないと知っていましたが
すでに群衆は祭司長達によって説き伏せられ
イエスを十字架につけるよう求めるのでした

その状況はピラトにもどうしようもないもので
かえって暴動になりそうだったため
ピラトは自分がこの責任を負わないために
群衆の前で手を洗って言いました
『この人の血について、わたしには責任がない
おまえたちが自分で始末をするがよい』
すると群衆は答えて言いました
『その血の責任は
われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい』

こうして
囚人バラバが許され
イエスは十字架にかけられることになりました

ヨハネによる福音書11章において
死んだラザロが生き返る奇跡を見た多くのユダヤ人たちは
イエスを信じるようになっていました
これに危機感を抱いた祭司長やパリサイ人たちは
議会を召集します
そこで大祭司カヤパは言いました
『あなたがたは何もわかっていないし
ひとりの人が人民に代わって死んで
全国民が滅びないようになるのが
わたしたちにとって得だということを
考えてもいない』

このカヤパの発言は
実は彼が自分から言ったものではありませんでした
彼はその年の大祭司でしたから
自分の知らないうちに予言させられていたのです

祭司長達にとっては
イエスが死ねば自分達の立場が守られ
ローマ人からも国をのっとられずにすむと考えたわけですが
予言の真意は
万民が救われるために
イエスが十字架にかかることをあらわしていました

このように
イエスの十字架は予言によるものであり
人がそれを妨げることはできないものです
しかしまた
総督という立場にあって
結局自分可愛さに正しい裁きができなかったピラトの姿は
人間の弱さを象徴しているといえるでしょう

イエスの行う神の奇跡を
感謝ではなく
ねたむ心で見ていた祭司長達
そして
ただ彼らに煽動され
自らの考えもなく行動する群衆
これらもみな
人間の愚かな姿を表わしているものです

このように
人間は”情と欲”をもっているので
そこからさまざまな問題が発生します
だからこそ
イエスの十字架上で流された血によって
人はその身を清めらると共に
なおも捨てきれない情と欲を十字架にかけるべく
日々みことばに従って
正しく歩む必要があるのです

大きな問題に直面する時も
情と欲を捨てなければ
問題の根本部分はいつまでも解決しません
自分が傷つかずにすむようにと
いつの間にか問題をすり替えてしまう人もありますし
自分の中で最初はおかしいと思っていたことさえも
都合よく正しいと思い込むように
自らをもっていく人もあるでしょう
しかし
大切なのは
どうすることが神さまから喜ばれることなのか
それを冷静に見極める信仰をもつことです

「だから
あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない
その確信には
大いなる報いが伴っているのである
神の御旨を行って約束のものを受けるため
あなたがたに必要なのは忍耐である」
(ヘブル人への手紙10章35-36節)

みことばによって教えられた正しい道を確信し
それを疑うことなく進んでいきましょう
基準はすべて聖書にあります
時代は変わり
人の考えも変わっていきますが
聖書は常に変わりません

どんな時にも潔くあるために
常に祈っていきたいものです




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