今週のみことば


9月8日

「そこでイエスが言われた
『ああ、愚かで心の鈍いため
預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ
キリストは必ず、これらの苦難を受けて
その栄光に入るはずではなかったのか』
こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて
聖書全体にわたり
ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた」
(ルカによる福音書24章25−28節)


イエスが十字架にかかり葬られてから3日目の朝
マグダラのマリヤら女たちは香料を持って墓に行きましたが
そこにはすでにイエスの姿はなく
輝く衣を着た人が二人立っていて言いました
「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか
そのかたはここにはおられない。よみがえられたのだ
まだガリラヤにおられたとき
あなたがたにお話になったことを思い出しなさい
すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され
十字架につけられ
そして三日目によみがえると仰せられたではないか」(5-7節)


そこで女たちはかつてイエスの語られていた言葉を思い出し
帰ってからこれらの出来事を11弟子らに知らせましたが
使徒たちはそれを愚かな話として信じませんでした

その後、二人の弟子が
これらのことについて話し合いながら道を歩いていると
そこへイエスご自身が現れて話に加わります
それでも弟子たちの目には
その方がイエスであるとはわかりませんでした

彼らはそのままイエスから聖書の説きあかしを受け
なお一緒の宿に泊まるようにと願い出ます
そこで食事の席についたとき
彼らの目は開かれ
その方がイエスご自身であることを悟ります
すると、その姿は見えなくなりました

『ああ、愚かで心の鈍いため
預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ
キリストは必ず、これらの苦難を受けて
その栄光に入るはずではなかったのか』

ずっとイエスと行動をともにしながら
十字架の苦難と復活について教えられてきたはずの弟子たちですが
実際に事が起こると
イエスの言葉を思い出し、信じる者はひとりもいませんでした

自ら自負する信仰歴の長い信仰者であっても
これほど日々イエスさま!!と言いながら
実はなにもわかっていない・・・
それが現実なのではないでしょうか

助けられた体験があってもすべて信仰にいきるわけではなく
大きな証(奇跡)が本当の信仰に結びつくとも限りません
繰り返し繰り返し同じお説教を聞いて教えられながら
それが少しずつ体験と結びつき、自分のものになる
その地道な信仰生活の歩みは不可欠です
よって、教会生活というものが必要になるわけです

イエスの復活について論じ合っていた二人の弟子の姿からは
神のことを議論する愚かさを教えられます
すでに直接聞かされていたことであっても
「死んだ人がよみがえるはずがない」との自分の思いが勝ってしまうと
素直に受け入れることはできなくなるのです
議論に集中すると正しいことが見えなくなり
かつて見た事実(死んだラザロが生き返ったことなど)さえも
思い出せないのでした

人はしばしば「こうでなくては幸せではない」と
自分で決めた枠を持っているものです
枠が狭いほど心に余裕がなくなり
冷静な判断は難しくなります
だからこそ
自分の決めた尺度にとどまるのではなく
イエスの言葉にとどまっている必要があるのです

墓を訪ねた女たちは
墓をふさいでいる大きな石の存在を気にしていましたが
行ってみると石はすでに転がしてありました
わたしたちにとっての大きな問題もまた
祈りのうちにいつの間にか取り去られ
こうしてひとつひとつの試練を乗り越えることができるのです

墓の中にイエスを見出そうとした女たちにみつかいは言いました
「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか」
どんな状況にあっても
いつまでも絶望の中に閉じこもるのではなく
生きる希望をたずね、見出すように
前を向いて進まなくてはなりません
また
本来、恵まれるために来るはずの教会で
人のあら探しをしたり
無意味な議論に熱心になったりしていたのでは
そこにイエスを見出すことはできないでしょう

人の心は同じではなく
このくらいなら言ってもいいと思っても
それが相手の心を思いがけず傷つける場合もあります
信仰者であるからといって
当然その言葉は絶対ではありません

「それは、わたしの民が二つの悪しきことを行ったからである
すなわち生ける水の源であるわたしを捨てて
自分で水ためを掘った
それは、こわれた水ためで
水を入れておくことのできないものだ」
(エレミヤ書2章13節)


イエスのよみがえりを受け入れない弟子たちは
すなわち、生ける水の源であるイエスを捨て
自分たちがあれこれ議論して水ためを掘っていたために
”愚かで心の鈍い”と言われる状態になったのでした
”愚かで心の鈍い”とは、言い換えれば
”我が強い””悔い改めない”ということでもあります

「主のさとしは正しくて、心を喜ばせ
主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする」
(詩篇19篇8節)


神の言葉を受け入れる心を持つことにより
わたしたちは正しいことが何なのかを知ることができるようになります
正しく物事を見ることができれば
これからの人生、どんなに幸いでしょう

そのために大切なのは日々心して祈っていくことです
もし自分が心の奥深いところで傲慢な思いを持っているなら
必ずそれは表にあらわれてきます
そういう自分の姿を素直に省みて
神の前に出たら何も偉そうなことは言いようもないのだと悟り
低くなって歩んでいくことができますように




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