今週のみことば


9月15日

「イエスは彼に言われた
『起きてあなたの床を取りあげ、そして歩きなさい』
するとこの人はすぐにいやされ
床を取りあげて歩いていった」
(ヨハネによる福音書5章8-9節)


エルサレムにベテスダと呼ばれる池があり
時折天使が下って水を動かすときに一番に水に入る者は
どんな病気でもいやされるとのことで
池のまわりにはたくさんの病人が集まっていました
その中で38年もの間病気で悩んでいる人に向かって
イエスは『治りたいのか』と問いかけます

長い間の病がいやされたいと思うのは当然の事でしょう
でもわざわざそのような質問をされた時
病人は率直にその質問には答えず
『水が動くときにわたしを水の中に入れてくれる人がいません』
と、愚痴を言いました

イエスはその人が当然治りたいことをご存知です
そして言われました
『起きてあなたの床を取りあげ、そして歩きなさい』

病気だけではなく
わたしたちにはさまざまな問題に対する”いやし”が必要です
ところが
このいやしを求める”気持ち”そのものが病んでいて
たとえば
「38年も治らないのだからもういやされない」とか
「治りたいかと聞くこと自体どうか」などと思うとすれば
まず根底にある思いに問題があるわけで
実際の場面でもこういうケースが多々あるのではないでしょうか

本当は病気ではないのに病気のような気がする人もあり
自分で「できない」と決めてしまって
本当にできなくなってしまうというのは残念なことです
それは、起きて床を取りあげることも歩くことも
たとえ命じられても「従えない」ということでもあります

それでもいやされたいという気持ちは持っている
だからこそずっとベテスダの池のそばで機会を待ちながらも
誰も助けてくれないのを嘆く日々・・
しかし、まわりの人々もまた癒されたい必死の思いでそこに居る

この人生を生きるにあたって
みんな必死で生きているところで
誰もわたしを助けてくれる人がいないと嘆き
人が何かをしてくれるのを待っていても仕方のないことです
力はないかもしれないけれど
動くべきところでは自分で動く
そういった”気持ち”の癒しこそ根本の癒しにつながっていくものです
そして
そこから先は自分の力ではなく神の力が働き
本当に歩くことができるようになるのです
そのためには
焦ることも急ぐこともなく
ただ淡々と神の導きのペースに従っていきましょう
一番重要なのは
自分がこの信仰に立って歩んでいくのだという気持ちがあるかどうかです

神はわたしたちの心の中をすべてご存知ですから
今ある立場も状態もすべては後の幸いのためにあるものです
それぞれにどこか根本的に癒されなくてはならない部分がある
また、そういう部分があるからこそ神に選ばれ
出会いがあり、今があるのです

38年間病気に悩んできた人も
病気があったからこそ癒しを体験することができました
病気だから、問題があるから
もうダメでおしまいだということは決してありません
いよいよ癒しを求めて神に近づくために
信仰を持って踏み出していきましょう




<目次