今週のみことば
9月29日
「にせ預言者を警戒せよ
彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが
その内側は強欲なおおかみである
あなたがたはその実によって彼らを見わけるであろう
茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか
そのように、すべて良い木は良い実を結び
悪い木は悪い実を結ぶ」
(マタイによる福音書7章15-18節)
わたしたちは今信じていることが
神にあって正しいことなのか
あるいはそうでないのか
それは実(結果)によって知ることができます
しかし
何か表面的なものに惑わされ、冷静さを欠くと
判断を誤ることもあるでしょう
世の中には
今も昔も”異なる教えの風”が吹いています
そんな中でも
イエスを信じる信仰で物事を見極めていけば
間違いを見わけることは十分可能です
ひとくちに”信仰の道”といっても
人それぞれの”幅”があり
その人の幅によって同じお説教でも聞き方が異なるため
結果的には進み方まで違ってくる場合もあります
そんな時
間違いのない基準は何かといえばやはり聖書です
上記みことばの13節からは有名な”狭き門”の箇所です
「狭い門から入れ
滅びにいたる門は大きく、その道は広い
そして、そこから入って行く者が多い
命にいたる門は狭く、その道は細い
そして、それを見出すものが少ない」
人は誰でも命に至る道を探し求めており
神の側からの救いの門戸は広く開けられているわけですが
現実には人の心にある思いが
救いの門や道を狭くしているのです
『ガラテヤ人への手紙』には
せっかくイエスの正しい福音が伝えられながらも
再び別の福音へと惑わされていく人々に対して
嘆きと戒めの言葉が語られています
2章13節よりパウロは語ります
「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって
異邦人なる罪びとではないが
人の義とされるのは律法の行いによるのではなく
ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて
わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである
それは律法の行いによるのではなく
キリストを信じる信仰によって義とされるためである
なぜなら
律法の行いによっては
だれひとり義とされることがないからである」
イエスの十字架によって
わたしたち異邦人も洗礼を受け
義とされる(罪より救われる)機会を与えられました
これは神よりの大きな恵みです
「わたしは神の恵みを無にはしない
もし、義が律法によって得られるとすれば
キリストの死はむだであったことになる」(21節)
律法の行いにこだわるガラテヤの人々に
パウロは洗礼を受ける意義について語ります
「あなたがたはみな
キリスト・イエスにある信仰によって神の子なのである
キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは
皆キリストを着たのである」(3章26-27節)
かくしてわたしたち異邦人も
律法の行いにつながれた奴隷の立場ではなく
神の恵みによって救われ
自由人の立場とされたのでした
「自由を得させるために
キリストはわたしたちを解放してくださったのである
だから、堅く立って
二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」(5章1-2節)
このように
律法の行いにがんじがらめになることもなく
神の子として与えられた自由の下に生きる立場となった者は
ただ自由だ自由だと喜んで
自分のしたい放題に
わきまえもなく過ごすのは正しいことではありません
「兄弟たちよ
あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである
ただ、その自由を、肉の働く機会としないで
愛をもって互いに仕えなさい
律法の全体は
『自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ』
との一句に尽きるからである」(5章13-14節)
わたしたちは”キリストを着た者”であるならば
それにふさわしい歩み、すなわち
神の愛をもって生きる道を選ばなくてはならないのです
エペソ人への手紙2章8-10節にも以下のように記されています
「あなたがたの救われたのは
実に、恵みにより、信仰によるのである
それはあなたがた自身から出たものではなく
神の賜物である
決して行いによるのではない
それは誰も誇ることがないためなのである
わたしたちは神の作品であって
良い行いをするように
キリスト・イエスにあって造られたのである
神はわたしたちが良い行いをして日を過ごすようにと
あらかじめ備えてくださったのである」
この救いは神の一方的な恵みによること
また
それは自分の努力で手に入れるのではないことを思い
日々、神の守りのうちにあることを感謝しつつ
”キリストを着た者”として自覚ある歩みを心がけていきましょう
信仰の世界には本来流行はありません
”異なる教えの風”に惑わされることなく
常に聖書のみことばを中心として
正しい判断をしていきたいものです
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