安息日礼拝について
<安息日の由来と意義>
天地万物は完成された
第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、安息なさった
この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので
第七の日を神は祝し、聖別された
(創世記2章2-3節)
安息日の始まりは創世記の天地創造からです
この日は一週間の終わり、つまり土曜日で
この日を神は聖別し祝福されたのでした
神はこの聖別された安息日を人々に「しるし」として与え
この日を守ることによって
自分達が神に聖別されたものであることを自覚させたのです
また、わたしは、彼らにわたしの安息日を与えた
これは、わたしと彼らとのあいだのしるしとなり
わたしが彼らを聖別する主であることを、彼らが知るためであった
(エゼキエル書20章12節)
そして、安息日においては人々は自分のしたいことをせず
神への礼拝を行うべきこと
それを守るならば、産業の祝福と生活の保障が与えられると約束されました
安息日に歩き回ることをやめ、わたしの聖なる日にしたい事をするのをやめ
安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日と呼び
これを尊び、旅をするのをやめ、したいことをし続けず、取り引きを慎むなら
そのとき、あなたは主を喜びとする
わたしはあなたに地の聖なる高台を支配させ、父祖ヤコブの嗣業を享受させる
主の口がこう宣言される
(イザヤ書58章13-14節)
<いましめとしての安息日>
安息日を守るべきことについては、『十戒』の第4条に記してあります
安息日を心に留め、これを聖別せよ
(出エジプト記20章8節)
このように、律法に定められたことは、もし守らなければ罪に定められたので
この時代の安息日は強制的なものでした
<旧約時代の安息日>
本来安息日は、“喜びの日”“主を尊ぶ日”なのですが
律法に従ってなされる安息日は人に不自由を感じさせ
人はその心の弱さゆえ
心から安息日を喜ぶことも尊ぶことも難しくなっていきます
アモス書には、不正を行う商人の心理が以下のように記されています
お前たちは言う
「新月祭はいつ終わるのか、穀物を売りたいものだ
安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くしたいものだ
エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう
弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう
また、くず麦を売ろう」
(アモス書8章5-6節)
ここに見られるのは、ただ安息日が形式的に過ぎていく実態であり
商人の心は、神ではなくお金でいっぱいなのでした
いくら安息日を守っても、彼らの考えることは神の心からはかけ離れていて
ただ形式のみに流れてしまうことの空しさがここで教えられます
<新約の時代の安息日>
結局、人は律法によって自分を正しく律していくことはできませんでした
そこで、その罪の体を救うために
神ご自身がいけにえとなって十字架にかかり
その血にあずかる洗礼と聖霊とによる救いが与えられ
人は律法によらず、神の救いによって
罪から開放されることとなったのです
これにより、安息日を守ることも強制ではなくなりました
新約の時代の安息日は
礼拝のために仕事や学校を休むといった無理をすることなく
それぞれの置かれた状況に応じて
心から神を拝していく機会を持つことが許されています
旧約の時代は安息日を守らなければ罪に定められましたが
洗礼と聖霊とによって救われた今は、罪はもう人を支配しません
なぜなら、罪はもはやあなたがたを支配することはないからです
あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです
では、どうなのか
わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから
罪を犯してよいということでしょうか
決してそうではない
知らないのですか、あなたがたは、だれかに奴隷として従えば
その従っている人の奴隷となる
つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか
神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです
(ローマ人への手紙6章14-16節)
こうして、洗礼と聖霊による救いという恵みにあずかった今
もう罪から開放されたのだから何をしてもいいというわけではありません
救われて神のもの(奴隷)となったからには
神の言葉に従順に従わなくてはならないのです
そして、そうすることによって、正しい道へと導かれていくのです
同様に、救われたのだから、もう安息日などどうでもよくなったのか
といえばそうではありません
これはあくまでも
安息日を守らずとも罪には定められないということであって
神に聖別されたしるしである安息日に、改めてそれを自覚し
クリスチャンとしてふさわしい歩みができるように
礼拝に集い、祈り、みことばを教えられ
心から神を拝する機会を持つのが信仰生活の基本です
ただ、間違ってはならないことは
礼拝に集うという形だけで満足したり
あるいは、それができないことでバチを恐れたりと
表面的なことのみで信仰を判断してはならないということです
それは単に文字にこだわる古い生き方であり
新約の時代は、聖霊に従う新しい生き方をもって神につかえます
しかし今は
わたしたちは、自分をしばっていた律法に対して死んだ者となり
律法から開放されています
その結果、文字に従う古い生き方でなく
“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです
(ローマ人への手紙7章6節)
救われた後も、人間の心にはなお弱さが残り
自分では正しく生きようと思いつつも
間違いを犯してしまうこともあるでしょう
それでも、神の前に悔い改めるならば許されていくのです
従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は
罪に定められることはありません
キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則があなたを解放したからです
肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです
つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り
その肉において罪を罪として処断されたのです
それは肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に
律法の要求が満たされるためでした
肉に従って歩む者は、肉に属することを考え
霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます
(ローマ人への手紙8章1-5節)
重ねて言いますが
救われた後は、もう罪から開放されたのだから何をしてもいい
というわけではありません
律法はあくまでも生きていて
ただそれに支配されなくなったというだけなのです
それは新たに聖霊が与えられ
その聖霊に従って歩む生き方が示されたからであり
それによって律法が人の中で完成されるためでもあるのです
律法は、『十戒』の内容を見てもわかるように
偶像崇拝、殺人、窃盗、姦淫に対する戒めや、父母を敬うべきなど
大切なものばかりです
霊(聖霊)の導きとはなにか、またこれに反する肉の欲望とは何かについては
以下のように具体的に記されています
わたしが言いたいのはこういうことです
霊の導きに従って歩みなさい
そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません
肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです
肉と霊が対立し合っているので
あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです
しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません
肉の業は明らかです
それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り
利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです
以前言っておいたように、このようなことを行う者は
神の国を受け継ぐことはできません
これに対して、霊の結ぶ実は愛であり
喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です
これらを禁じる掟はありません
(ガラテヤ人への手紙5章16-23節)
聖霊の働く(導く)この恵みの時代にあって
外部には神の保護があり、内部には聖霊の喜びがあって
真の平安を与えられる幸いを得ています
その信仰生活にあって、安息日は、神の定めた聖日としてこれを尊び
一週間守り導かれたことへの感謝と共に
その心をいよいよ神に向けていく起点とする時です
なぜなら、イエスご自身が自らを“安息日の主”と唱え
それが人のために定められた大切な日であると語られているのです
安息日は人のために定められた
人が安息日のためにあるのではない
だから、人の子は安息日の主でもある
(マルコによる福音書2章27節)
<恵みの時代にあっての信仰生活>
以上、安息日の意義と重要性について、みことばを中心に記してきましたが
では今の時代において安息日は具体的にどのように過すべきなのでしょうか
このことについて、聖書には詳しい記述はありません
わかっていることは、ただ“安息日を尊ぶ”ということだけです
“安息日を尊ぶ”とは、つまり神を礼拝すること
となれば、教会の安息日礼拝に集うことが一番大切であると思われることから
この“教会に集う行動”のみが重要視されることが多く
ではその人がどういう心でもってその場に臨んでいるかは
現実には、二の次になっているかもしれません
毎週どんなことがあっても万難を排して礼拝に集い続ける人の中には
やがてその形にとらわれるあまり
一度でも休むと祝福が減らされるのではないかと心配する人も出てきます
人間は行動が習慣化すると、別の行動をすることに恐れが来る上
特に日本人は“バチがあたる”ことを非常に恐れる傾向にあるからです
しかし、もし何が何でも毎回欠かさず礼拝に集わなければいけないのであれば
それは律法の時代の安息日と変わらなくなってしまいます
そして、律法によって義に至る道を模索するのは、恐ろしいことに
イエスの十字架を無意味であったというようなものなのです
律法によって義とされようとするなら
あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ
いただいた恵みも失います
(ガラテヤ人への手紙5章4節)
ここでは、割礼という律法にこだわる人々に対する戒めが記されてあり
すでに救われている者がいつまでもそこでつまづいていないように
以下のように結ばれています
キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく
愛の実践を伴う信仰こそ大切です(6節)
つまり、救われてクリスチャンになった者は
これからその心を神に向け、いよいよ神に習う者となっていくように
実生活の試練の中で、神にあって強く平安に生きる生き方を学んでいくのです
新約聖書の中では、パリサイ人に代表される偽善者がしばしばとりあげられ
心からではなく、形だけにとらわれる信仰スタイルが
いかに神に嫌われるかが示されています
一度救われた者が再び律法の中に戻っていこうとする姿は
表だけ立派に見える偽善に走りがちであるクリスチャンの
間違った姿でもあります
安息日礼拝に集うことについても、人それぞれ、 仕事や学校等時間の都合
家庭の事情、交通費等金銭の都合、健康上の問題など
さまざまな壁がそこにはあって
ただ教会に集う回数のみでその人の信仰を量ることはできないでしょう
だからといって、やすきに流れればきりがありません
ルカによる福音書21章では
お金持ちが献金を入れるのと
貧しいやもめがわずかなお金を入れるのを見たイエスが
後者は誰よりもたくさん入れたのだと語っています
それは彼女が神に対して、できるだけのことをしたからでした
これは金額の問題ではなく心の問題です
このように、信仰生活にあって問われているのは表向きの行いではなく
心、信仰なのです
そう考えていく時に、自分が今、神の前にできるのはなんであるかを思い
無理をして傲慢になるのでもなく、怠惰に流れてしまうのでもなく
あるいは、バチがあたるのを恐れて行動するのでもなく
その心に神を求める思いがあるかを省み
その純粋な思いをそのまま注いでいくのが
一番自然な信仰生活ではないかと思われます
具体的にどう行動すればいいのかは、心から神を求め、祈っていくならば
それぞれにふさわしい歩み方が聖霊によって示されるでしょう
恵みの時代の信仰の基本は
『文字に従う古い生き方でなく、“霊”に従う新しい生き方で仕える』
と、すでにみことばを引用したとおりです
そして、その歩みが正しければ、そこには必ず「証」が伴います
その「証」とは、すでに引用したように
『霊の結ぶ実は愛であり
喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です』
とのみことばが成就し
イエスの花嫁にふさわしい者となるように
自分の心や行為が変えられ、整えられていくということです
******
以上、安息日礼拝について、概要を書き記してみました
言葉足らずのところもあると思われますが
ひとつずつ補足し始めると膨大になってしまうため
今回は一応これでまとめとさせていただきます
もし疑問に思われる点があれば、どうぞ遠慮なくご質問ください