わたしたちは神によって投げられた石
 良い時も悪い時も
 その身の振り方を神の流れに任せていくと
 人生に平安を得ることができる

 

今日はいつもと少し趣向の異なる話をして行きたいと思います。

この話は
アメリカのイエール大学で助教授をやっている日本人の成田悠輔と言う人が、
ある大学の卒業式で来賓の挨拶として招待され行ったスピーチを
一部引用したものになります。
この人は私の3歳上なので結構歳が近いのですが、
歯に衣着せぬ物言いが原因で定期的に炎上している人でして、
何年か前に「日本の政治が良くなるためには、
『武士道とは死ぬことと見つけたり」の精神に則って
高齢の国会議員が集団自決をしなければならない」
と言って大問題になった様な人でもあります。
本人も自覚している様ですが、
この人は国外で過ごす時間が長いので、
自分は日本人でありながら
半分外野なので好きなことが言えるとしています。

さてその内容なのですが、不思議な一説から始まります。
「投げられた石にとって、
登っていくことが善でもなければ、
落ちていくことが悪でもない」

これは今から二千年ほど前、
ローマ帝国の16代皇帝マルクス・アウレリウスが残した言葉であります。
この皇帝は王様である一方で哲学者でもあり、
自身のノートに日々色々な考えていること、
感じていることを書き残すことが趣味だったので、
後年になってそのノートが編纂されて
名言集・格言集として世の中に残されていたりします。
この「投げられた石にとって、
登っていくことが善でもなければ、落ちていくことが悪でもない」
と言うのが分かるようで分かりにくい。
その辺に落ちている石の中から1つを選び取り、
人間が力を込めて天に向かって投げる。
そうすると物理学の法則に則って
ある一定の速度と角度でもって飛び出し、
あるところでピークを迎え、
そして重力にひかれて地面に落下しただの石に戻る。
そんな石が
外的な影響で落ちていたり飛んでいたりしていても、
結局石は石に過ぎず
その本質は変わらないのだと説いているわけです。

まだ分かるようで分からない、そんな状況かなと思います。
もう一つ話をします。

日本の学校教育の中で、
最も重要視されているものは何でしょうか。
それは「絶え間ない不断の努力と、
それによってもたらされる目標の達成」です。
日本は歴史的に儒教の影響を受けていますが、
儒教は孔子の教えで努力の重要性を説いています。
「人は努力によって誰でも聖人になれる」
と言う風に教えているわけです。
ですから日本の教育、
そしてそれを通って成長した社会人は仕事で結果を残し、
出世して高収入を得る事が
1つのサクセスストーリーとして称賛されているわけです。

ところが現実は
思い描いていた夢と随分異なります。
社会に出ると本人の努力もある程度は必要ですが、
それで全てが決まるわけではない。
出世と言うものを基準に見たとき、
本人がどれだけ努力したかと言う事よりも、
実はどの上司の下に着いていたかの方が
案外重要だったりします。
どれだけ多くの収入を得られるかは、
どの会社に入るかよりも
どの業界を選ぶかである程度決まっていたりします。
たまたま会社が大きく成長するタイミングで入社することが出来た人と、
入社した直後に大きな仕事が切られて会社が迷走する人では、
得られる経験値や将来性が大きく異なります。
全ては本人がどれだけ努力を積み重ねようが、
外乱の影響が圧倒的に大きくどうにもならない事が多くあります。

つまり「投げられた石」とは私たちの事であり、
その石である私たちが登っていくか落ちていくか、
それは私たちが何かをしたからでは無く
「たまたまそう言う時だったのだ」と説いているわけです。

世の中でメディアに登場する経営者や社長と言う方々の中には、
自身の経営哲学を自信満々に語られる方が多く見られます。
「こんな風にしたから成功したんだ」と力強く発信されますが、
「そりゃ今は軌道に乗ってるから良いけど、
将来落ち込んできた時にそんな格言を残していたら、
掘り返されて惨めになるだけじゃないか」と心配したりします。
昔マネーの虎と言う番組がありましたが、
あの番組に出演して偉そうにしていた社長たちの中で、
今でも社長業をやっている人がどの程度いるんでしょうか、
どうでも良いことですが気になります。

何にせよ、先日の礼拝でも
「無理をしない信仰」と言う話がありました。
これは私の信条でもありますが、
人間は弱いので
「何の対価も求めずに無理をすること」は出来ないと思います。
何か頑張った先に得られる可能性があるから、
とりあえず目の前の辛い今を頑張って乗り越えられるわけです。
逆に言えばその人の心には
「これだけ頑張ったのだから何かあるだろう」
と言う邪な心が生まれているわけです。
人間の本心とはそんなものではないでしょうか。
無理をすれば御利益が欲しくなるというのが人間心理です。

なので私たちは神様によって投げられた石として、
その身の振り方を流れに任せていけばいいのだと思います。
「上っていくことが善でもないし、落ちていくことが悪でもない」。
投げられた先で上がるのか下がるのか、
外の環境は時々刻々と変化していきますが、
全ては神様のご計画の上に成されること。
常に救いの御手の中にある我々は
その変化に対して右往左往するのではなく、
結果的に平安な人生の歩みを
手に入れて行きたいと願うところです。