神の約束は必ず成就する・・・と
 神を畏れるアブラハムには
 ゆるぎない信仰があったので
 理不尽と思えることも受け入れようとした


創世記第218節より

息子イサクが成長し、
乳離れした事を祝って宴会が開かれていました。
しかしサラはその中でイシュマエルがイサクをからかっているのを見ます。
これはガラテヤ書429節に詳細が書かれていますが、
サラにはこのまま2人が一緒に成長する事が良くないと感じていました。
イサクから見てイシュマエルは従弟のお兄さんの様なポジションですが、
年齢差があるのでイサクがずっと虐められるのではないか、
イサクが約束された者でありつつも、いずれ跡目争いになるのではないか、
そんな風に見えたわけです。
そこでアブラハムに対してハガルとイシュマエルの追放を迫ります。
サラと異なりアブラハムから見ればイシュマエルも自分の子供なので、
それはそれで悩みます。
その時に神様は「サラの言う通りにしなさい」とアドバイスしています。
なぜならイシュマエルもまた、アブラハムの子孫だからですね。

その後実際に
水と食料を持たせてハガルとイシュマエルは追放され、
そして荒野を彷徨います。
水も食料も尽きた後、
イシュマエルが死ぬのを見たくないハガルは
日差しを遮れる木陰にイシュマエルを残して離れ、声をあげて泣きました。
その声を神様が聞いた事で
ハガルらには水が与えられ生き延びることが出来ています。
そしてその時に
イシュマエルから1つの民族が生まれると約束が為されています。
ただしその後にイシュマエルはどうなって行ったかと言うと、
弓を射るものになったとあります。つまり猟師です。
魚の漁師ではなく、動物を狩る方の猟師、狩人(かりうど)です。
狩人と言う言葉、実は既に創世記で出てきていますが、
創世記108節にニムロデと言う人が登場しており、
この人が神の前に力ある狩人であったと書かれています。
そしてニムロデが主導してバベルの塔を建てたとも考えられており、
この狩人と言うのは神様に従わない、反抗する存在である事を示しています。
ですからイシュマエルも、そこから生まれてくる子孫たちも
神様に背く存在になって行った訳です。

さて一方のイサクですが、
創世記22章の1節より話して参ります。
神様はアブラハムの信仰を試すためにアブラハムを呼び
一人子であるイサクを捧げなさい」と命じました。
アブラハムとサラ夫婦にとって待望の子供であり、
神様によって約束された子供を捧げるように言われたのです。
捧げると言うのは血を流して殺し、
そして祭壇で焼く事を指しています。
通常は子羊を捧げるのが旧約の時代の常ですが、
この時神様は子供を捧げる様に伝えたわけです。
普通であれば当然色々な葛藤があり、悩み、
実行に移すことは難しいですね。
ですがアブラハムはすぐに旅の準備を整え、
イサクと2人のお供を連れて出発します。
山の頂上で捧げるわけですが、
出発して3日目にその山のふもとまで来ました。
そこでお供の2人には「帰ってくるからここで待っていなさい。」と告げ、
イサクに薪を背負わせ、アブラハムは火と刀をもって山に入って行きました。
通常であればここに捧げるための子羊を連れているはずですが、
それが無いのでイサクは不思議に思い
父親であるアブラハムに問います。
ですがアブラハムは
「燔祭の子羊は神様が備えて下さる」とだけ言って進んでいくわけです。

そして遂に祭壇の前まで到達し、
そこでイサクを縛って祭壇に寝かせ、
刀を振り上げて殺そうとしたタイミングで御使いが止めに入ります。
そしてアブラハムが一人子さえも惜しまなかった信仰の深さ、
神を畏れる姿勢を認め、
イサクの代わりとなる子羊を用意されました。

こうして結果的には事なきを得たわけですが
ひとつ疑問が残ります
イサクは神から約束された子供。
約束の内容は
イサクからアブラハムの子孫が星の数ほど増えて行くと言うこと
。ですが
ここでイサクを捧げるとそれが叶わなくなる様に思います。
人間的に考えれば、
神様からの約束と指示が矛盾しているように感じるわけです。
当然アブラハムもその点に悩んでいました。
そしてある結論に至り
それがへブル書1117節に書かれています。
つまりイサクは自分の手で殺されなければならない。
その一方でイサクからは多くの子孫が生まれる。と言う事は
イサクは死に、
そしてその後に神様が蘇らせて下さるのだと確信があったわけです。
この感覚は
自分の思いよりも神様を畏れるアブラハムの到達した
信仰の境地とも呼べる状態だったのです