仮にその時は意味が分からなくても 「あの時の○○は、 今思えばあれで良かったのだな」と 神の前にへりくだる人ほど思えてくる |
創世記第24章1節より
アブラハムは妻サラの死後も年齢を重ねていました。
その中でイサクも四十歳になっており、
妻となる人を探さなければなりませんでした。
ただアブラハムの中には一つの思いがあり、
それは自分の一族、
つまりアブラハムと同じ神様を信じる事の出来る人を
イサクの妻にしたかったのです。
それはイサクが約束の子であり、
またイサクを通じてアブラハムの子孫が
星の数ほど増え広がる事が約束されている。
その妻であり、後の子孫から見れば母となる重要なポジションに対して、
信仰の異なる人物を充てられないのは当然でしょう。
ですからカナン人の中からではなく、
親族の中から候補者を探そうとしたわけです。
そこで僕であるエリエゼルに対して
アブラハムの故郷であるハラルへ向かい、
そこで花嫁に相応しい人を探して来る様に申し伝えました。
アブラハムが提示した条件は2つであり、
1つは「アブラハムの故郷にいる親族である事」、
もう1つは「故郷を離れてイサクの元へ嫁ぎに来る事」でした。
ところがダマスコ出身であるエリエゼルからすれば馴染みの無い土地であり、
しかもそこで主人の息子の妻となる人を探す
重要な任務を果たさなければなりません。
アブラハムから具体的に「○○の家に向かえ」と言う指示も無いわけですから、
エリエゼルはハラルに着いたものの
どうやって探したら良いのか分からない状況でした。
その人はどこにいるのか、どんな人なのか、どうやったら出会えるのか、
そんな何も情報の無い中で探すと言うのは中々の難題です。
そこで神様にお祈りをしています。(創世記第24章12節)
ところがその祈りが終わる前に
リベカと言う女性が水を汲みに現れました。
そこでエリエゼルはこのリベカが神様の用意された人であるかを確認するために、
その水を自分とラクダにも与えてくれるかを試しました。
すると祈った通りに水を与えてくれる人物でした。
ここでエリエゼルはリベカが神様の用意された人であると確信し贈り物をしています。
更にリベカに対して誰の子か問うと、
アブラハムの兄弟であるナホルの孫であることが分かりました
(テラ→ナホル→ベトエル→リベカ)。
これを聞いたエリエゼルは神様の大いなる計画が為されている事に感謝しています。
エリエゼルの良いところは、
先の祈りも含めて常に
「アブラハムに対して神様からの恵みが与えられますように」と言う内容であった点です。
自分の旅が報われたい、自分が評価されたいでは無く、
主人の幸せを願い神様に祈る事の出来る人であったことが分かります。
さてリベカと出会ったわけですが、
次はイサクの元へ連れて行かなければなりません。
そこでリベカの親族と合う為に家まで行き、
これまでの経緯を説明しています。
リベカも、そしてその親族もアブラハムと同じ神様に従う正しい人でした。
ですからリベカが神様によってイサクに用意された妻となるべき人であると言うこと、
そしてそれを受け入れ従うかと言うアブラハムの問いに対して
「主の御意思、主の御計画の上に成される事であるので
良いとも悪いとも言えるものではない」と答えています。
こうしてリベカがイサクの元へ嫁ぐことが決まりました。
翌朝にエリエゼルはリベカを連れて帰ろうとしますが、
リベカの親族は唐突な別れになる事から少し待ってほしいと告げます。
ですが当の本人であるリベカが「行きます」と答えた事から
早々に旅経つことになりました。
こうしてイサクの元へとリベカは妻となって行き
イサクの嫁探しは終了したわけですが
この物語を通して
2つのポイントを抑えて行かなければならないと感じます。
1つはリベカの親族が答えた通り、
神様から為される事は私たちが良いとも悪いとも言えないと言う事です。
以前に投げられた石の話をしましたが、
神様によって投げられた石である私たちには、
その行き先を選ぶことも出来なければ、どうなるかを委ねて行くしかありません。
ですがそれは全て神様によって成される事であり、
1人1人にとって必要な事が必要なタイミングで起きているのです。
ですから目の前で起きる事に振り回されるのではなく、
神様によって成される事なのだから「お任せすれば良い様になる」
と考えて生きて行くことが大切なわけです
もう1つはエリエゼルの心の在り方です。
創世記15章にある通り、イサクが生まれる前、
エリエゼルはアブラハムの相続人でした。
つまりイサクが生まれなければ、
アブラハムの莫大な財産はエリエゼルの物になったはずだったのです。
ですがイサクが生まれた事でエリエゼルはただの僕(しもべ)になり、
そしてイサクの為に妻を探して来る様に申し伝えられる、
これは普通の感覚からするとかなり辛い事の様に思います。
人間は期待する生き物ですから、一度期待したものが外れるのは辛いことです。
最初から期待が無ければ何も思う事は無いですが、
見えていた可能性が消えると言うのは落差が激しくより辛く感じるものです。
ですがエリエゼルは終始一貫して主人アブラハムに、
そしてアブラハムの信じる神様に忠実な僕でした。
自分が相続人となっても高ぶらず、常に主人の幸せを願い続けた。
その結果、神様からの祝福が下る瞬間に最前線で立ち会う事が出来たのです。
神様の御業は常に為されているわけですが、
自分が高ぶっていると見えなくなります。
ですが後からでも良いので
「あの時の○○は、今思えばあれで良かったのだな」と思えてくると、
自然と腰は低くなり主の前に謙虚な姿勢で歩むことが出来るようになります。
そしてそれこそが神様の喜ばれる歩み方でもあると言う事です。