「自分が」と言う我が強くなるほど 人生の主体が自分になり 神さまから心が離れて行く事につながる |
出エジプト記 第17章1節より
シンの荒野を踏破したイスラエル一行でしたが
そこから更に進み
レビデムと言う場所で
天幕を張って休息しました
このレビデムと言うのは
この後で登場するシナイ山の
少し手前の位置になります
シナイ山は
三角形をしたシナイ半島の先端部にあり
このシナイ山の麓に
シンやエタムと言った
荒野が広がっているのでした
ですから
休息地として選んだのは良いのですが
問題はここには水がありません
そこで例によってイスラエルの民は
モーセに対して
「水が欲しい」と文句を言います
非難を浴びるモーセもたまらなくなり
「なぜ私に食ってかかるのか
なぜエホバを試すのか」と反論します
一方、イスラエルの民はモーセに対して
「我々をエジプトから導き出したのは
水が無く乾いた状態にして殺す為だったのか」
と言う訳です
ここに至ってモーセは神様に
「この民をどうしたら良いのでしょうか?
今私は石で撃たれようとしています」
と訴えています
この祈りに対して神様はモーセに
神の杖を手にし
イスラエルの長老らを率いて進む様に命じます
そしてそこには岩があり
この岩の上に神様が立っていると告げました
この岩をモーセが杖でうつ事により水が出て
民は水を得る事が出来るとしたのです
モーセは実際にその通りに行いました
わたしが子どもの頃に
この部分を聞いた時
岩から流れる水のイメージは
”吹き出す”と言う様な印象でした
ところが詩編の78編15節を見ると
「磐(いわ)をさき
大なる淵(ふち)より汲むがごとく」
「磐より流れをひきて河のごとく」
とありますので
実際には膨大な水が岩から流れ出て
それが一時的に
川の様になって行った事が分かります
特にこの「淵(ふち)」と言う表現は
ノアの箱舟の際にも用いられており
40日40夜の雨が降り始める直前に
「大淵の源皆潰れ」とありますから
巨大な水溜まりからの水が
流れ込んで来るような
そんな規模の流れだったのでしょう
そしてもう1つ
この聖書に出て来る「磐(いわ)」が
神様の事であると言うのは
けっこう分かり易いかと思います
そんな磐に対して神様は
最初に「磐を撃て」と告げました
イスラエルの民は今
水に飢えて乾いています
そこに磐が撃たれる事によって
水を得て潤いを与えて行く
しかしその磐は神様ご自身であり
すなわちイエス様である訳です
イスラエルの民は
イエス様を討つ事で血潮が流される
そして後に
その血潮を受ける事で
救いにあずかることになるのです(洗礼)
ヨハネ伝4章13節において
有名なサマリヤの女の話が描かれていますが
そこでイエス様が与える水を飲む者は
永遠に乾かないとしています
つまり今後
イエス様を通じて開かれる新約の扉が
ここで暗示されているとも理解できるわけです
そしてここから40年後
カナンの地を目前にしたモーセは
同じ水不足の不満を
イスラエルの民から受けます
そしてこの時に神様は
「磐に命ぜよ」とモーセに告げますが
イスラエルの民に対するストレスから
モーセは岩を撃ってしまいます
40年前は”撃て”
今回は”命ぜよ”と指示は変わった
その理由については
前に一度磐を撃っている
つまりすでに一度
イエス様を十字架にかけている訳ですから
二度目は必要ないと言う事ですね
なので二度目の水については
”命じる”と言うと言葉がキツイですが
”お願いする”と言う形で
本来は得られて行くはずでした
ところが怒りに任せたモーセは
磐を撃ってしまいます
しかもこの時に
神様の指示に背いて磐を撃った
と言うことよりも
民数記略20章10節にある通り
水を出す主体が
「我等」と言ってしまった部分に
問題があったわけです
つまり水を出すのは神様の業なのに
モーセはそれが
自分の業であるかの様に
イスラエルの民へ示してしまったのです
かつてフランスの哲学者デカルトは
「我思う、故に我在り」と説きました
「全ての物を徹底的に疑い
疑いきれなくなった時に真実だけが残る」
と言う思想を前提とした時
最後には疑い続けている
「自分の思考」だけが残った
と言う有名な話ですね
この自分であり
個人と言う物を認めると
今度はそこに
「個人のもの」と言う概念が伴ってきます
これこそが執着への始まりであり
お互いの持ってるものを比較し
マウントを取り合う様な
人間の愚かさの根源であると考え
自分の無い状態である
「無我の境地」を求めたのが仏教の世界
ですが私達イエス様を信じる者としては
この自分に代わる存在としてイエス様があり
全ての物事は
イエス様の采配によって決まって行く事を
受け入れて行く必要があります
良い事があったら感謝する
悪いことがあっても最後には必ず
「あれで良かった」と思える希望が残される事を
信じて感謝する
「自分が」と言う我が強くなるほど
人生の主体が自分になり
イエス様から心が離れて行く事につながります
私達の人生の主体はイエス様であり
そのイエス様が動かされる人生を
傍観者の立場で見て行く
それが心の平安を得る方法であり
私達はそこに向けて
日々感謝を持って歩んで参りたいと思うところです