レビデムで水を得たイスラエル一行に
   今度はアマレク人が襲いかかる
   この戦いは
   モーセの後継者となるヨシュアの教育の場であり
   またそこに神の介入が起きている事を
   強く理解させるためのものでもあった

 

出エジプト記 第178節より

レビデムと言う場所で天幕を張り
前回モーセが磐(いわ)を打つ事で
水を得たイスラエル一行でしたが
そこにアマレクと呼ばれる遊牧民族が
襲い掛かって来ます

ここでモーセはヨシュアに対し
「男手を集めてアマレク人と戦いなさい
私は神の杖を手に持って丘の頂上に立つ」
と伝えました

ヨシュアはエフライム族出身であり
民数記略第138節及び16節には
「ヌンの子ホセアをモーセがヨシュアと名付けた」とあります
このヨシュアはモーセの後継者として
これから育てられて行く人になります

そしてモーセもまたヨシュアに伝えた通り
丘の頂上からヨシュア率いるイスラエル軍と
アマレク人の戦いを見ていました
モーセが手を上げている間は
イスラエルが優勢となります
モーセはイスラエル軍の為に手を上げ続けようとしましたが
腕を上げ続けるのは負担が大きく
次第に腕が下がってしまいます
するとアマレク人が優勢となり
イスラエル軍が押されて行きました

この丘の上のモーセの動き
そしてイスラエルとアマレクの戦いを見ていた
アロンとホルの2人は
モーセの腕が下がらない様に
自分達がモーセの腕を支える事にします
そしてアロンとホルは
モーセの右腕と左腕をそれぞれ支え
日没まで続く戦いの間に
モーセの腕が下がらない様にしました
この結果ヨシュアは
アマレク人を撃退する事に成功します
神様はモーセに対して
今回の一件を文章として書き残し
それをヨシュアへ読み聞かせるように伝えます

イスラエルの民がエジプトから出国した際に
神様はカナンの地への
最短ルートを避けて導きました
それは道中でペリシテ人との戦いに
巻き込まれる事を避ける為であり
これによりイスラエルの民の心が
神様から離れて行かないようにする為の
作戦でもありました

ところが遂に恐れていた
他の民族との戦いが起きてしまった訳です
この戦いは
モーセの後継者となるヨシュアの教育の場であり
またそこに神様の介入が起きている事を
強く理解させるためでもありました

詩編第634節に
「斯われはわが生るあひだ汝をいはひ
名によりてわが手をあげん」とあります
口語約で読むと
「命のある限りあなたを称え
手を高く上げ御名によって祈ります」とあります

つまりモーセが手を上げている間に
イスラエルの民が優勢になるのは
モーセの信仰に由る祈りによって
神様の御業が為されているためであり
モーセの腕が疲れて下がると神様の御業が失われ
イスラエルが押されて行く訳です
このようにヨシュアに対して
「自身の力では無く
神様の助けによってイスラエルが勝利したのだ」
と言う事を理解させたのでした

また私達もこのモーセの様に
神様を褒め称え続けたいと思っていても
身体は弱くそれを続けていく事が出来ません
マタイ伝第2641節で
イエス様が祈りの途中で寝てしまった弟子に対して
「心は熱すれども肉体よわきなり」と説いている様に
モーセと言えども人間であり
私達も含めて祈り続ける事を意識しなければ
忘れてしまうと言う事ですね

18章に入り
モーセの元にエテロが訪ねてきます
エテロはエジプトから逃げ出したモーセが
40年間お世話になったミデアンの地
そこにある妻の実家の舅(しゅうと)であり
このエテロに対してモーセは
「親族へ会いにエジプトへ行く」と言ったきり
戻っていませんでした

しかしモーセの活躍は噂(うわさ)として広まり
エテロの耳にも届いたことで
今回の再開となります

またエテロと共に
モーセの妻であるチッポラと
2人の息子であるゲルショムと
エリエゼルも帯同していました

チッポラはモーセが神様によって召命されるまでは
モーセと共にありましたが
息子が割礼を受けてない事で
モーセが討たれかけた事件の頃に
実家へ戻っていました
彼らと再会したモーセはこれまでの苦労を語り
如何に神様によって助けられてきたかについて語っています
またエテロもその話を受けて
燔祭を捧げ神様に感謝しました

ところが翌日エテロが見ると
モーセは次々に持ち込まれるイスラエル人同士の
トラブルの解決に奔走(ほんそう)していました
何せ300万人程度の巨大な集団ですから
そこで人間が生活していれば
大小様々な問題が発生するのです
これらの問題に対してモーセは
1つ1つ向き合って解決に導いています
ですからモーセに相談したい人が列を為し
朝から晩までモーセは問題解決に忙しくしていたのです

そこでエテロは
もっと効率的な方法として
モーセに2つのアドバイスをしました

1つは「法度と律法を彼らに示せ」と言う物で
事前にイスラエルとしてのルールを定める事で
民に対して”どの様な生き方をすべきか”を
示す様に伝えています

ルールと言うのは
ゼロから生まれてくるものでは無く
先に理想像があって定められるものです
1つの理想的な組織の在り方を実現するために
そこに属している人間が守るべき掟(おきて)として
ルールが定められる訳です

もう1つは
「賢く神を畏れており、正しい事を重視し
個人の利得に走らない人を選び出し
それらの人を千人隊長、百人隊長、五十人隊長
十人隊長として民の上に起きなさい
そして細かな問題は彼らに任せ
大きな問題のみがモーセの耳に入る様にすべきです」
と説いています

現代においても
会社や軍隊には
役職や階級と言ったものが存在します
会社の社長が末端の全社員に対して
仕事の指示を出し、進捗(しんちょく)を管理し
問題点の指摘や相談に応じていた場合
社員が23人しかいないような
小さな会社ならそれでも良いですが
そうでなければ仕事になりません

社長には社長と言う仕事があり
会社が進むべき方向性を定め
そこに向けた戦略を練り
外部と交渉して道を作ると言う責任があります

ですが社内の管理に時間を使っていたら
社長としての仕事が進まないのです
なので役職として
下から主任、係長、課長、部長と管理する責任範囲を定め
社長は部長の管理だけをすれば良い
と言う風にするわけです
この部長には社長の考え方をしっかりと伝え
社長と同じ判断が出来る人間を選んで据える事で
細かい社内の管理は部長に任せて
社長は自分の仕事に集中出来るのです

そして部長も
自分の担当する「部」を管理する上で
細かい「課」に分けて行き
それぞれに課長を置く事で
部長が末端の社員まで管理する必要が無いようにします
部長は課長を管理すれば
事実上末端の社員まで管理している状態になる訳です
課長は係長を、係長は主任を
そして主任が一般社員をと言う形で
縦の管理構造が構築されていくのです

こうして
「モーセと仲間達」だったイスラエルの民はまとめられ
統率の取れた「イスラエル民族」として
集団で行動が出来る様になります
またそれは
これから先に続く長い長い荒野の旅
そしてその果てに行われる
カナンの地を平定する戦いに向けて
それらに勝利していくために
必要な変化でもありました