今日のテーマは |
12月28日
今日は『出エジプト記』の続きではなく
ちょっと別の話をしてみます
一昨日の金曜日で仕事納めとなりまして
ここから年明けの1/5迄が
年末年始の休みとなりました
と言っても年内は掃除三昧ですから
実質的にゆっくり出来るのは
年明けてからの休み後半戦になるかと思います
先週は
年明け早々に社内でテスト運転があるため
それに向けてテスト機を準備したり
データを取得する為に
センサーの調整をしたりと色々やってまして
その中で開発グループに
今年新卒で配属された男の子と
他愛もない会話をしていました
大学が同じで、しかも同じ研究棟にいたらしく
余計に親近感があって話し込んでいたんですね
すると4月に入社して
社会人生活も9ヵ月近くが過ぎ
思っていた社会人の姿と
実際に日々過ごす中での実感にギャップがある事や
理不尽な思いをしてやり場のない思いがあったりと
「あー新卒ってこんな感じだったよな〜」と
社会人を10年以上やってきた人間として
懐かしく聞いていました
私が新卒で教習所へ就職し
指導員としてデビューした時も理不尽の塊と言うか
今考えても「あれは何が正解だったんだろうか?」
と思う事が多々ある訳です
例えば実車で右左折の方法を教える際に
合図を出して確認をして
速度を作って…と手順が沢山ありますが
それを運転させながら説明するのは難しい訳です
なのでコース内の空きスペースに教習車を止めて
車内で教本を見せたり絵を描いて説明する訳ですが
そうすると後から
「教習生は運転してナンボ何だからもっと走らせてやれ」
と怒られるんです
じゃあ走りながら説明を入れながらとやってると
どうしても教習生の理解度が浅くなって
次の指導員から
「手順がまだ分かってないじゃ無いか」
と怒られる訳です
他にも「楽しませる教習をしなきゃダメだ」と
先輩上司から指摘されるので
教習生とコミュニケーションを積極的に取って
楽しそうにやっていると今度は
「ニヤニヤしながら真面目に教習しとるんか」と怒られる
結局社内の信用が底辺からスタートしているので
常に周囲から監視されて
色々と好き勝手なことを言われるんですよね
なので私達は自虐的に「初年兵」と呼んでいました
怒られるのが仕事と言う様な感じです
この”理不尽な思い”と言うのは
生きている以上は避けようもなく
降りかかって来るものであり
子どもなら大抵は親に対して
理不尽な思いを感じる訳です
そして、大人になると
先輩上司やお客さんから
理不尽な思いを受ける対価として
給料をもらう事になります
「その理屈は通らないだろ」と思っていても
それが通ってしまうパワーバランスが
世の中にはあるんですね
聖書の中でも
この理不尽と言うのは登場します
いや、むしろ神様は
理不尽な存在であるとも言えます
例えば
アダムとエバがエデンの園にいた時
食べてはいけないと言われていた
「善悪を知るの木」の実を食べてしまった
これによって神の怒りにふれて
エデンの園から追放される訳ですが
食べてはいけないと言うのなら
なぜ最初からそんな木を用意していたのか?
と疑問に思います
他にもエサウとヤコブの兄弟は
生まれる前から
ヤコブが神様の寵愛を受ける事で決まっていました
ヨセフは一度罪人にまで落とされて
そこから宰相として引き上げられるまでは
底辺の生活を経験させられました
全能である神様の力を存分に振えば
もっと直接介入して動かす事が出来たんじゃないか?!
そんな思いに駆られてしまう程
聖書の中では
神様が理不尽として映る様な場面が多数存在します
そこで今日のテーマは
『なぜ神様は理不尽なのか』です
結論から言ってしまえば
「人間が畏(おそ)れる為」と言う事
つまり理不尽さが無いと
人は神様に対して
畏れを抱かないと言う事です
例えば良い事をすれば祝福し
悪い事をすれば罰を与える
日本で最もイメージされやすい
信賞必罰、因果応報の神様であれば
人はどの様に考えるでしょうか?
当然ながら
自分にメリットのある良い事だけを
選択していきますよね
罰が与えられると分かっていて
あえて悪い事を選ぶ人と言うのは少ないでしょう・・
はたから見るとそれで良い様に見えますが
ここで大切なのは
「その心のベクトルが自分に向いていませんか?」
と言う事です
つまり神様の行動原理が
因果応報だと分かっているからこそ
自分にとって最も利のある選択をしていく
人間は良くも悪くも賢い生き物ですから
神様の行動原理が見透かせるなら
自分の利益の為に神様を利用し始める
はたしてそれは信仰と言えるのでしょうか?!
逆にその行動原理が見えない
分からないからこそ
人間は神様を利用する事が出来ない訳です
どこに地雷があるのか
どこに評価されるポイントがあるのか
それが分からないので
結局は神様の言われる通りに従うしかない
そうなると
”心のベクトルが神様に向いている”状態が
得られるわけです
人間関係に置き換えると分かり易いかと思いますが
例えばいつも怒っているけど
怒るポイントが分かっている人と
たまに怒るが
どこに地雷があるのか分からない人の
どちらが真に怖いかと言う事です
怒るポイントが分かっている人は
回避したり上手に扱う事も出来ますが
どこに地雷があるか分からない人は
対策の立てようが無いのでヒヤヒヤする訳です
そしてこのランダムで
理不尽に見える神様の働きですが
ランダムだからこその優しさと言うのもあるんですね
つまり因果応報であれば
悪い事の原因は自分の行動にある訳ですから
辛い目にあっていても
他人は「自業自得」としか見ません
ですがランダムで理不尽な働きだからこそ
他人は「可哀そうに」と思う訳です
ギャンブルで生活苦におちいった人に
同情する人は少ないですが
病気や事故によって働けなくなり
困窮する人には
同情が集まるのと同じです
そして同情の中でまた助けも与えられ
それは人が
金銭によって補助する事もあるでしょうし
当事者である本人が
試練の中で神様を見出してすがる事により
得られる力や助けもあるでしょう
この1年間、前半は創世記
そして後半は出エジプト記を
ずっと追いかけてきました
そこには人の想いがあり
神様のご計画があり
人知を超えた神様の助けと
御業が為されてきました
最後に
ピリピ書4章6節を拝読して
終わりにしたいと思います
「どんなことでも
思いわずらうのはやめなさい
何事につけ
感謝を込めて祈りと願いをささげ
求めているものを
神に打ち明けなさい
そうすれば
あらゆる人知を超える神の平和が
あなたがたの心と考えとを
キリスト・イエスによって守るでしょう」
目の前で起きる事を思いわずらうのではなく
もちろん人間として
こうあって欲しいと願う祈りは必要としても
ただそこに神様のご計画が為され
最終的に良い形になって行くことを
信じて歩んで行く事の大切さを再認識し
これまでの2024年に感謝し
そしてまた新たに迎える2025年も
引き続きその様に歩んで行ける様
祈って参りたいと思います