どんな困難の中でも
 神が共に戦われるので
 不都合な敵の存在も
 やがて信仰の成長につながる

創世記第321節より

前回までを振り返ると
ヤコブはラバンの元で20年と言う歳月を過ごしました
そしてカナンの地へ帰る様にと神様からお告げを受けた事で
ラバンの元を去る事にしましたが
ラバンはヤコブを手放すつもりがありませんでした
そこで夜逃げの様な形でラバンの元を去りますが
途中で気付いたラバンに追いつかれます
ですが神様から釘を刺されていたラバンは荒ぶることも無く
ヤコブとお互いに一線を超えない様にと契約を為して別れました
今日はその続きで
遂にラバンから解放されたヤコブの話になります

ヤコブは父の元、つまりカナンの地を目指すわけですが
それは同時に
「兄エサウに再開する」ことを意味していました
エサウとどの様な別れ方をしたか覚えているでしょうか
ヤコブはエサウの家督の権を食事と引き換えに手に入れ
視力を失った父イサクをだましエサウに扮して祝福を受けました
つまりヤコブは
エサウが受け取るはずだった神様からの恵みを全て奪い
そして怒った兄から離れ
伯父ラバンの元へ逃亡したのでした
従って父の元へ帰ると言う事は
かつて自分を殺すとまで言った兄と再開する事を意味するわけです

そこでヤコブはまず使者を送り
エサウの様子を確かめる事にしました
帰って来た使者は
「エサウが400人を連れて迎えに来る」とヤコブに報告します
これを聞いてヤコブは心底震え上がりました
400人と言えば軍隊の規模であり
現代の軍隊だと
2個中隊や1個大隊レベルの規模になります
そこでヤコブは
まず手持ちの家畜を2つに分け
距離を隔てる事で
万が一エサウの襲撃により片方が滅ぼされても
もう片方が助かるよう対策をはかりました

更にヤコブは神様に祈っていますが、
要約すると
「神様が帰る様にと言ったのだから、守って下さいよ」と
半ば責任転嫁しつつすがっています
それほどにエサウを恐れていたわけで
更に更に、ヤコブは次の策を打ち出します
それは手持ちの家畜から良い物を選んでエサウへの贈り物とすること
この贈り物が合計580頭と言う非常に大きな規模であり
しかもそれらを複数のグループに分け
小出しにエサウの元へ届く様にしました
この贈り物のグループを率いるしもべには
「我が主エサウに対する僕(しもべ)ヤコブの贈り物です」
と言う様にとも伝えています
ヤコブは贈り物攻撃でエサウの気をなだめ
自分に危害が及ばない様にと対策をしていたのです

ですが結局ヤコブは夜も寝付けず
夜中に妻と子供を起こしてヤボク川を渡りました
そして妻子はそこに残して自分は再び川を渡って戻り
一人ぼっちになっていました
すると突然不思議な人が現れてヤコブに襲い掛かり
2人は取っ組み合いをする事になりました
この争いは夜が明けるまで続きましたが
相手がヤコブの腿(もも)を打った事でヤコブの股関節が外れ
これにより闘いが終わることになります

相手が「もう夜が明けるから終わりにしよう」と言うと
ヤコブは「祝福をいただけるまでやめません」と食い下がります
そうです、ヤコブは気付いていたのです
この取っ組み合いをしている相手が神様であることに

「夜が明けるから終わりに〜」と言うのは
当時の考え方で
「神様を直接見てはいけない」と言うものがあったからです
日本の神道でも神様は見てはいけない
見えてはいけないと考えている様に
当時のユダヤ人も同じ様に考えていたわけです
見てしまうとそれは命を取られるとも考えていました

さてヤコブと相対した神様は問いました
「お前の名前は何だ」と
これに対してヤコブは当然「ヤコブです」と返します
そこで神様はこう告げました
「今日から名前をヤコブではなくイスラエルと名乗る様に」と

ここでヤコブと言う名前
その由来は何だったでしょうか?
「かかと」でしたね
生まれる時に兄エサウの踵(かかと)をつかんで生まれた事から
この名がつけられました
かつてイサクは
祝福を得られなかったエサウに対してこの様に予言しています
「お前は剣に頼って生きて行くのだ(2740)」と

剣道をやった事のある方は分かるかと思いますが
刀を振る時に重要なのが足を踏み込むことです
そして人間は踏み込む時に踵から地面に足を着きます
つまりヤコブがエサウの踵をつかんで生まれたと言うのも
剣に頼る兄の弱点である踵を抑えているぞと言うメッセージであり
「兄が弟に仕える事になる」と言う
神様の預言の現れだったと言えます
そして予定通り兄弟は争い
そしてヤコブは家を飛び出しました
飛び出した先で妻と子供に恵まれましたが
同時にラバンと言う新たな敵と争う事になりました

こうしてヤコブの人生と言うのは
生まれた瞬間から争いの連続でした
それらを上手く乗り切っている様でしたが
ここに来ていよいよ
自分の命がエサウによって取られるかもしれない
と言う恐怖に直面します

そこで突如現れた神様との闘い
そして勝利の末に問われた「お前の名前は?」と言う意味
それは「ヤコブがエサウを従える」という神様のご計画を示すと同時に
イスラエルと言う名前を与える事で
神様への信頼を理解させるためでした

イスラエルと言う名前は
「神」と「戦う」と言う2つの意味から成っていますが
この明確な意味は色々と考えられます
つまりヤコブが「神と戦った者である」と言う直接的な意味
そしてこれまでのヤコブの人生において
更にこれから迎えるエサウとの面会
その先の人生までも含めて
「神様がヤコブと共に戦う」と言う意味にも取れます

この一件を通じて勇気付けられたヤコブは
遂にエサウと面会します
この時点ではもう危険回避の策略は企てず
普通に妻子を連れ
自分が先頭に立ってエサウの元へ向かいました
それでもエサウが恐ろしいヤコブは
七度身をかがめてとありますから
礼節を尽くしてエサウに接しています

ところが結局ふたを開けてみれば
エサウは喜んで弟を迎え入れています
過去の一件は水に流したのか
それとも20年と言う歳月が忘れさせたのか
はたまた神様の助けにより考え方を改められたのか
それは聖書に記述がありませんから明確ではありません
ただ分かっているのは
兄弟の間にわだかまりが無いと言う事です
何にせよ結局あれだけ心配してヤコブは色々と対策をしてきましたが
全て杞憂に終わったのでした

ヤコブは母であるリベカから大切にされていましたから
リベカが神様から直接
「弟が兄を従える」とお告げを受けた事も知っていたでしょう
ですから兄から家督の権を買い取った事も
父イサクをあざむいて祝福を得た事も
全ては神様の計画がなされる為と言う意識があったはずです
ですがそれでもヤコブは信じ切れていませんでした
だからエサウをあれほどまで恐れたのです

かつて自分の子供さえも惜しまずに捧げようとした
アブラハムの信仰を私たちは知っていますから
そこに比べると
何となくヤコブからは小物感がただよいます
しかし実際のところは
このイスラエルを名乗る前のヤコブこそが
私達に最も近い存在であり
信じているつもりでも信じ切れない
すぐに不安になって迷ってしまう
そんな弱い人間の本質が見え隠れしていると感じます
だからこそ私たちは神様に対して
すがって行かなければならないわけです

このエサウとヤコブの物語を読み終えた時に
ふと感じた事がありました
「結局エサウとは何者だったのだろうか?」と

生まれる前から祝福を継ぐ為に相応しくないと預言され
生まれてから預言通りに家督の権と祝福を失い
だったら最初からなぜエサウと言う存在が必要だったのだろうかと

その答えは
ロマ書910節からパウロが解き明かしています

”子供らが善も悪も行わない生まれる前の段階で
 神の選びによって兄が弟に仕える”との神のご計画が
リベカに告げられ
その時には
ヤコブを愛し、エサウを憎むとまで
神様はリベカに告げています
そこまで言うならなぜエサウが産まれたのか
それは22節にある通り
神様の力を示す為には
かたくなに神に従わない存在が必要だったのです

焼き物を作る職人が出来の悪い器を叩き壊す様に
神様の権威をもってすれば
エサウを最初から世に送り出さない事は簡単でした
ですがそれではヤコブが学べないと考えられた
だからエサウと言う本来は認めたくない怒りの器であっても
憐みと忍耐の元に置き
それを通じてヤコブが神の存在を認め、すがり
その力が大きい物である事を示す必要があったと言う訳です
エサウがいなければヤコブの信仰は完成しませんでした
それはエサウを前にした時の恐れが
余りにも大きい事から分かります
だからこそエサウの存在は必要だったわけですね