人間は慣れていく生き物なので
 どんな素晴らしい神の証があっても
 やがて信仰心も薄らいでくる
 そんな時に再び信仰に立ち帰るために
 不都合なことも起きるかもしれない

 「信仰しているのに何で悪いことが起きるのか」
 と嘆くより
 「信仰しているからこそ
 神さまは何を成してくださるのだろうか」
 との目線に立てる人は幸い
 

創世記第3318節より

エサウとの再会を終えたヤコブは
カナンの地にあるシケムと言う町の手前に住む事となりました
この時代は町全体が都市国家の形をとっていますから
全周に渡って壁が築かれ
羊飼いたちは中で生活する事が出来ません
そこで町の外にある土地を
所有者であるハモルから買い取り
そこに天幕を張って定住する事にしました


ところがこの時に
ハモルの息子であるシケムがレアの子であるデナに対して
性的暴行を働くと言う事件が発生します
シケムは人の名前であり
かつ町の名前でもあるわけです
この一件はヤコブの耳に入る事となりましたが
取りあえず息子達を招集して対応を協議する事としました
かつてイサクの嫁探しで
しもべのエリエゼルがリベカをカナンの地へ連れ帰ろうとした際に
リベカの親であるベトエルだけでなく兄のラバンにも許可を得ていました
つまり一族の全ての男子に決定権があると言うことが
この時代の常だったのです。

ところがこの協議を行う前に
シケムと親であるハモルが現れて本件の調停を願い出ています
「息子シケムがやった事は許されない事であるが
息子はデナの事をいたく気に入っている
そこでデナをシケムの元に嫁がせ
ハモルの娘をヤコブの息子達に嫁がせて
私たちは親族となり共に栄えて行きましょう」と提案します
更にハモルはヤコブに対して
シケムの町に居住する権利を与えるとし
そこで商売をすればもっと財産を増やすことが出来るとアピールしています
シケムはシケムでデナを嫁に迎え入れられるなら
どんなに高額な花嫁料でも支払うとしました

 この申し出に対してヤコブの息子達は次の様に述べました
「割礼を受けていない異教の人間に、自分達の妹を渡すわけにはいかない
シケムの町にいる全ての男子が割礼を受けるのであれば
デナを引き渡して我々は1つとなりましょう
ですがそうでなければデナを連れて去ります」
この返答はハモルとシケムにとって願ったり叶ったりであり
早速町にいる全ての男子に割礼を受けさせる事としました
ところが町の住民に対して説得に使われた文句は次の通りでした
「我々が全員割礼を受けてヤコブの一族と1つになる事で
彼らの持っている莫大な財産も我々の物となるのだ」
つまりハモルとシケムは
ヤコブ側と町の住民側に対して真逆の説明をしているわけです
これはハモルによる策略でした

しかしヤコブ側が申し出た割礼の件も
実はヤコブの息子達による策略だったのです
この後、町の全ての男子が割礼を受けてから3日目
割礼の傷が最も痛み動けないタイミングで
ヤコブの息子であるシメオンとレビがシケムの町を襲いました
しかも動けない男子を殺し
町から財産や人を奪いとって略奪しました
また妹デナを救出してヤコブの元に帰還しています

この息子達の所業に対してヤコブは
「なんてことをしくれたのだ
これで我々はカナンの地では嫌われ者となり
他の部族が結託して襲ってきたら我々は滅びてしまうぞ」と非難しています
ですが息子達は
「このまま花嫁料をもらってデナを引き渡すなら
それは妹を人身売買している事になるでしょう」として反論するのでした


さて、そもそもヤコブは何の為に旅をしていたのでしょうか
神様からの指示を受けて
父イサクの住むベテルに帰る為でしたね
本来は兄エサウと分かれて
後の目的地はベテルしかない状態だったはずですが
なぜかヤコブはシケムに土地を買ってまで定住する事を選ぼうとしました

もしヤコブがこの地に定住し
デナがシケムの元に嫁いだらどうなっていたでしょうか
それは同時にハモルの娘とヤコブの息子が結婚する事も意味し
アブラハムから続く
「同じ神様を信じる相手との結婚」と言う考え方が揺らいでしまいます
つまり息子達の信仰の根底が揺らいでしまうと同時に
ヤコブに与えられた神様からの指示である帰郷も成し遂げられません
従ってデナに襲い掛かった悲劇と言うのは
1人の人間にとっては悲劇ですが
神様のご計画を前進させる為に必要な悲劇であったとも言えるのです

もちろんヤコブの2人の息子、シメオンとレビはやり過ぎました
妹を救出するため、また一族の名誉回復のためとは言え
1つの町を滅ぼすと言うのは過剰な復讐です
そのため、後に死を前にしたヤコブは
12人の子供たちへ予言を残す際に
この2人については「呪われよ」と伝えています(495)
そしてシメオンとレビの一族をイスラエルの中に散らすと予言した通り
この後の時代にモーセがイスラエルの部族を祝福する際(申命記33)
そこにシメオン族の名は出てきません
ただレビ族はこの後に祭司の家系となった事から祝福に預かっています


私たちは神様を信じ
そして神様のご計画が成されて行きますようにと祈ります
ですがその気持ちと言うのは常に思っているわけでは無く
停滞する時期が現れます
新たに教会に通い始めた時
何か証しが成され気持ちが前向きになった時
最初は神様を求め賛美していけるわけですが
人間は慣れていく生き物なので次第にその気持ちは薄らいでいきます
そして信じてはいるけれども惰性で教会へ通い
良くも悪くもフラットな日々を過ごすと考えなくなっていくのです
そんな時に再び信仰の炎を燃やす為に
神様によって背中を押されて行く訳ですが
その方法と言うのが必ずしも良い事とは限りません

試練を通じて神様の救いが与えられ
そして神様に栄光を帰して行く事で再び信仰に立ち返っていく事が出来る
かつて兄エサウが神様の憐みによって生み出され
その争いと恐怖を通じてヤコブの信仰が作り上げられた様に
「信仰しているのに何でこんなことが」ではなく
「信仰しているからこそ
このことに対して神様が何を成して下さるのだろうか」
と言う目線に立てると幸いです