神のご計画は
 人生から見れば
 とてつもなく長いスパン(期間)で成されていくので
 人は神の助けを忘れがちになる
 平穏な日々が続くのは幸いだが
 信仰を保つ上では危険な状態でもある
 

創世記第37章より

前回は、ヤコブが父イサクの元に帰り
そこで再会を果たした後に
イサクが180歳となり死ぬという所で終わりました
今日の37章からは
イサクがまだ生きている頃の話であり
少し時間を巻き戻す形で始まります

ラケルの長男であるヨセフは17歳になっており
他の11人の子供達と共に成長していました
ところがヨセフは兄弟の悪い行いを父ヤコブに告げていた事から
兄弟の中で良く思われていませんでした
またヤコブはヨセフを特に可愛がり
裾の長い衣服をヨセフに着せていました
この服は長子の証とされる服であり
ヤコブはヨセフを長子とするつもりだったのです

このヨセフを長子とした理由はいくつか考えられ
聖書にも「年寄子」と書かれているように
ヤコブからすれば孫の様な年齢差の子供であり
しかも愛したラケルの残した子供ですから
特別に思い入れがあるわけです
他にも考えてみると実は選択肢が少なく
まず長男から順に
ルベンは父の寝床をけがした罪で外されています
シメオンとレビはシケムの町で暴虐を働いていますから長子に相応しくない
ユダは次章に書かれていますが堕落しており
禁忌であるカナン人との結婚をしているのでこちらも除外
ここからの子供は妾であるビルハとジルパの子供ですから
そもそも正妻ではないので対象外です
となると結局長子の可能性があるのは
レアの子供であるイッサカルとゼブルン
そしてラケルの2人の子供であるヨセフとベニヤミンの4人しかいません
その中でヤコブはヨセフを選んでいたのです


特にヨセフには突出した素質がありました
マタイ伝1016節においてイエスさまが十二使徒に対して
「蛇のごとく慧く、鳩のごとく素直になれ」
つまり鳩の様に神の前に純粋で素直である事が重要であると語られたように
良くも悪くも悪事を指摘するヨセフは素直であり
ですがまだ蛇のごとくさとくは無かったので
兄と摩擦を起こして事件へと発展していくのです
兄弟からすれば末の弟が実質的に長子として扱われている上に
兄弟の悪事を素直に指摘するので
ヨセフの事を快く思ってはいませんでした

そんな状況の中でヨセフは
悪びれもせずに夢の話を始めます
自分の麦がピンと真っ直ぐ立ち
兄弟の麦が周りで集まり首を垂れたと言う訳です
当然ながら兄弟は怒ります
更にヨセフは別の夢の話を始めます
太陽と月と11の星が自分に平伏すと
太陽はヤコブ、月は母親、そして11の星は兄弟の事ですね
流石にヤコブもこの状況をマズイと感じたのか
ヨセフをたしなめつつ兄弟をフォローしています
聖書の記載は「ヨセフを叱った」とありますが
その後に「父はこのことを心に留めた」とありますから
ニュアンスとしては「馬鹿なことを言うな」と言うよりも
「そんな事を今ここで言うんじゃないよ」と言う程度の印象ですね

ところが父の焦りは現実のものとなってしまいます
ルベンやシメオンはシケムの町に出かけて行き
そこで羊を飼っていました
覚えていますでしょうか、シケムでヤコブは土地を買っていましたよね
その様子をうかがう為にヤコブはヨセフを見に行かせたのです
ところがヨセフがシケムに行っても兄達の姿はありません
その場にいた人に尋ねると「ドタンへ行った」と言われます
そこでヨセフは更に足をのばしてドタンへ向かいました
そして遠くに兄の姿を見つける事が出来ました
しかしシメオン達は遠くからやってくるヨセフに気が付くと
「おい、例の夢見るお方が来たぞ」と言って馬鹿にしました
そしてヨセフを殺して穴に隠し
ヨセフの語る夢がつぶれる様子を見ようと画策します
ですが長男のルベンはそんな兄弟の計画を止め
「何も殺す必要は無い、穴に落として痛めつけるだけで良い」として説得します
実はルベンは後でヨセフを助けて連れ帰るつもりでした

ヨセフが兄達の元にたどり着くと
ヨセフは上着を奪われて穴に放り込まれてしまいます
兄達は一仕事を終えて食事を取っていると
たまたまキャラバン隊が通りかかったので
ユダの発案でヨセフを奴隷として売ることにしました
最初は殺すつもりでしたが
流石に兄弟を手に掛ける事は誰もが避けたかった
そこでこの場所からいなくなれば良いだけなので
遠い異国の地へ送ってしまおうと考えたのです
結局ヨセフは銀20枚で奴隷として売られて行きました
ヨセフが着ていた長子の上着には子羊の血を塗り
父ヤコブに対してはヨセフが獣に襲われて死んだと報告します
これをヤコブは深く嘆き
誰が慰めても聞き入れなかったと書いてあります
結局ヨセフはエジプトまで連れていかれ
そこで宦官の長であるポテパルに引き渡されて行きました

ヨセフの物語の前半を見てきましたが、整理すると

@ヨセフは素直である余り
 兄の悪事を父に報告して恨まれた

Aヨセフは父ヤコブからの寵愛を受け
 長子として扱われた事で兄からの妬みを受けた

B兄の手により捉えられ
 ユダの発案で銀20枚と引き換えに奴隷として売られて行った

この先のストーリーは有名なので先取りしておくと

C奴隷として働く中で出会いがあり 
 王様の夢を解いたことで宰相として取り上げられた

D夢から大飢饉のお告げであると読み解き
 穀物を大量に備蓄する事で国民を救った

E食料を求めてやってきたヤコブや兄弟達と再会し
 彼らはヨセフに対して首を垂れていった

神様がヨセフに見せた2つの夢ですが
兄の迫害にあった事も含めて
全てが神様の計画通りに成されています
ここで言う計画とは
ヨセフが宰相となる夢の話だけでなく
かつて創世記15章で
神様がアブラハム(当時はアブラム)に告げた約束に基づくものです
神様はアブラハムに対して
「子孫が異邦の国で寄留者となり、400年間奴隷として仕える」
と告げています
正にこの寄留者となるきっかけこそがこの地域を襲った大飢饉であり
またその中で神様が救いを用意するためにヨセフは用いられ
宰相となったわけです

ですがヨセフが通された道のりは
決して楽なものでは無かったはずです
だからこそ神様はヨセフに対してゴールを先に見せた
それが彼にとっての励みであり、救いであり
そして人生の灯となる夢だったのです

私たちはどうしても人生が短いので
物事のスパンを短く考えてしまいます
お金が無くて困っている時は
「家に帰ったら突然机の上に現金が積んであれば良いのに」と思う訳です
ヨセフの話でもそうですが
奴隷を経由して宰相へという遠回りをする位なら
神様の力で最初からゴールに連れて行ってくれれば良いのに
と考えてしまいます
ですが神様のご計画は
人生から見ればとてつもなく長いスパンで進んでおり
例えばアブラハムに告げた子孫の奴隷として仕える期間が
400
年もかかる理由については
神様が「アモル人(カナン人)の罪が極みに達するまで」と説明しています
そしてご計画のスパンが長いからこそ
人は神様の救いを忘れて行きやすいわけです
誰しも人生を振り返った時に
「あの時は助けられた」と思う瞬間があるはずですが
それも繰り返される日常の中でその感動は薄らいでしまう
人間である以上は仕方がないのですが
逆に言えば平穏な日々こそが
信仰を保つ上で危険な状態である
とも言えます
平穏に過ごせることを感謝出来れば良いのですが
平穏に流されてしまうと神様を見失ってしまう
だからこそ悩みの渦中にある人は
悩めることに感謝をして(悩みに意味があることを知る)
神様の業が成される事に希望を見出すこと
悩みの無い人は、悩まずに済んでいる事を感謝すること
いずれにしても全ての事が神様によって成されており
そこには必ず神様の救いが用意されている事を覚えて歩んでまいりましょう