神のご計画の「時」が満ちる前の 時を待たない行動は 結局、神から止められることになるが 人間はどうしても勝手に行動したくなるもの |
出エジプト記1章より
今日から出エジプト記に入ります
出エジプト記はモーセを中心に据えた内容であり
そのモーセの生涯をたどる中で
イスラエルの民がエジプトを脱して
カナンの地を目指す事
そしてシナイ山における
いわゆるモーセの十戒の授与と
神様との契約が成される重要な場面が含まれます
創世記の終わりから引き続き
ゴシェンの地へ定住したイスラエル一行でしたが
ヤコブの12人の息子から12の部族が立ち上がり
そしてそれぞれが多くの子孫を抱える事になります
ここで300年程の時間が経過し
ゴシェンの地へ定住した際の世代は全員死にました
ですがその頃には
イスラエルの人口は以前にも増して多くなっており
当時のイスラエル民族は
エジプト王国よりも強大な勢力になっていたのです
以前にもお話ししましたが
ヨセフが用いられた当時は
エジプト王国を
遊牧民族であるヒクソスが支配している時代でした
同じ遊牧民族としてイスラエル人が
エジプト王国から友好的に迎え入れられていましたが
第1章8節にある様に
「ヨセフの事を知らない新しい王」と書かれている通り
このヒクソスによるエジプト統治が終了しています
この出エジプト記の時代に入ると
エジプト人による統治へと変わっており
それまで仲間であったはずのイスラエルの民は
「異国人」の扱いになっていったのです
日本でも現在
クルド人問題が取り上げられている様に
一国の中で外国人勢力が増えると警戒されます
当時のイスラエルも同じ様に
数が増えていく事を警戒され
エジプト王国の中で次第に
虐げられるようになっていきました
とにかくイスラエルの民が増える事を
抑えたかったのです
この人口抑止政策として最初に行ったのが
重労働を課す事でした
辛く危険な作業をさせる事で
人口が増えない様にと試みています
しかしこの政策は失敗しました
どれだけ重労働を課しても
人口が減るどころか増えたのです
どれだけ苦しめても
人口増加が止まらないイスラエルの民を見て
エジプト人は恐怖したと書かれています
そこで次の政策に打って出ました
それは助産婦に対して
「イスラエル人から生まれた男の子を殺し
女の子は活かす様に」という命令を出したのです
なぜ男の子を殺すのかと言うと
1つは戦争で兵士となる子供を減らす為ですが
もう1つの意味がありました
それは当時
「生まれる子供がどこの人種になるかは
男性側で決まる」
と考えられていて
つまりエジプト人の男性と
イスラエル人の女性との間から生まれた子供は
エジプト人になると言う事です
ですからイスラエル人の男性を減らせば
自然とイスラエル人の数を減らすことができ
いわゆる同化政策として有効であった訳です
ところが助産婦は神を畏れていた為
この王の命令には従いませんでした
イスラエルに男の子が生まれている事を知ったエジプト王は
助産婦を問い詰めますが
助産婦は「イスラエルの女性は強いので
自分たちが到着した時には生まれている」と
シラを切ったのです
この助産婦の行為は
イスラエルを大いなるものとしたい神様の御心に叶い
彼女らの家に繁栄を起こしました
結局どうやっても
イスラエル人の数を減らすことが出来ないエジプト王は
最後に、生まれた男の子を全て
ナイル川へ流す様にと命令したのです
第2章に入り
あるレビ人の夫婦に男の子が生まれました
レビ人とは
ヤコブの3番目の息子であるレビから始まる一族ですね
王様の命令がありますから
男の子はナイル川に流さなければなりませんが
子供が可愛いので流すことが出来ず
3ヶ月コッソリと隠していました
ところが3ヶ月も経つと隠しきれないとあるように
3ヶ月にもなると鳴き声が大きいですし
声を聴けば男の子だと分かるので隠しきれなくなります
そこでナイル川には流しますが
そのままボチャンと捨てるのではなく
籠に防水処理をしたものに入れ
ナイル川に生えている葦の茂みにそっと置きました
この子供の姉が
この後どうなるのかを離れた所から様子見していると
そこは王様の娘が水浴びをする場所で
王様の娘がお供の侍女を連れて現れました
この侍女が茂みに置かれている籠を発見し
開けてみるとヘブル人の子供が中で泣いています
(この第2章から
イスラエルの民の事をヘブル人、ヘブライ人と
聖書に記述されている箇所が出てきます
ただこれはイスラエルと同義です)
そこで離れて様子を伺っていた姉が急いで駆け寄り
王様の娘に対して
「あなたに代わって育てる乳母を探してきます」と伝えます
そしてこの子供の本当の母親が
乳母として連れてこられました
王様の娘は
賃金を支払うのでその子を育てる様に申し付けました
こうして捨て子であった子供は
本来の親の元で成長し
然るべき年齢になった頃に王女の所へ連れていかれました
そして正式に王女の息子として受け入れられ
その名前をモーセと名付けられます
モーセとはヘブライ語で
「川から引きあげられた子」と言う意味であり
そのままの名前ですね
使徒行伝第7章20節より
モーセの生涯に関して概略をまとめられている記述があり
そこに「エジプト人の全ての学術を教えられた」とありますから
モーセは正式に王女の息子であり
将来のエジプトを担う人材として教育されていることが分かります
また十分な教育を受けたモーセは
知識だけでなく話術や作法においても一流の人材でした
ある時モーセは
同胞であるイスラエル人が
エジプト人から暴行を受けている場面に遭遇します
モーセはエジプト側の立場ですが
それでも心はイスラエルの民でした
なので同胞を助ける為にエジプト人を殺し砂に埋めます
この時のモーセの心境について
使徒行伝第7章25節に
「彼は己の手によりて神が救いを與へんとし給ふことを
兄弟たち悟りしならんと思ひたるに」とあります
つまりモーセは自身の正義の行いが
神様の働きによってもたらされた物であると
彼らが理解してくれると思っていました
ところが残念ながら現実は非情であり
助けたはずのイスラエル人には
目の前でモーセがエジプト人を殺した事実しか見えていませんでした
なので翌日にモーセがイスラエル人同士のケンカの仲裁に入った時に
「昨日エジプト人を殺した様に、今度は私を殺すのか」と問われ
モーセは真意が伝わっていない事に気が付かされます
そもそも重労働を課せられ
奴隷の様な生活を強要されているイスラエル人の労働者にとって
同じイスラエル人のはずなのに
エジプト側で良い生活をするモーセに対して
反感を抱かない訳がありません
そんな状態でケンカの仲裁に入った訳ですから
「何の権限があってそんな偉そうなことを言うのか」
と言われるのも当然と言えます
モーセから見れば同胞でも
イスラエル人から見ればモーセは裏切り者に写っているのです
事ここに至って
やっとモーセは自分の周りに敵しかいない事に気が付きます
そしてこのままではエジプト人を殺した罪に問われてしまう事を察し
エジプトを去る事にしました
エジプトから逃げ出したモーセは
ミデアンの地に流れ着きます
ちなみにイスラエル人が寄留したゴシェンの地は
今のスエズ運河が掘られている辺りであり
モーセが流れ着いたミデアンは
今のサウジアラビア北部になります
なので直線距離で300km程度離れたところまで
モーセは逃げた事になります
こうして逃げ延びた先で新たな生活が始まる訳ですが
このエジプトから逃れた時のモーセは40歳であり
ここからミデアンの地で更に40年間を過ごしていく事になります
モーセはイスラエル人でありながら
エジプト王国の中枢で育ち
そしてそのまま静かにしておけば
王女の息子として優雅な生涯が約束されていました
ですがモーセは
1人のイスラエル人を助ける為に全てを捨てています
この事ついてヘブル書第11章24節には
「信仰に由りてモーセは人と成りしとき
パロの女の子と稱へらるるを否み
罪のはかなき歡楽を受けんよりは
寧ろ神の民とともに苦しまんことを善しとし」とあります
つまりモーセにとって
王族として過ごす人間的に恵まれた人生よりも
自分のアイデンティティである神の民である事を重視していました
ですから結果的にエジプト人を殺してしまったのも
同じアイデンティティを持つイスラエル人なら
分かってくれるはずと思っていた訳ですね
ところが結局
モーセがイスラエルを率いて立ち上がるのは今では無かった
神様のご計画される時が満ちていない為に
イスラエル人の無理解と言う形で止められて行きました
ですがそれもモーセを教育する為
ミデアンの地へ送り込む為の神様からの計らいであった訳です
このモーセのエジプト脱出を見て来た時に
思い起こされたのはヤコブの生涯でした
彼は兄エサウから家督と祝福を奪った事により
報復を恐れて伯父ラバンの元へ逃げ出しました
逃げた先は決して楽な生活ではありませんでしたが
そこでヤコブは神様によって教育され
そこから巨大になって行くイスラエルを統率するリーダーとして成長します
モーセも同じです
ここからモーセは神様と相対し
そこでモーセがイスラエルを率いるリーダーとして教育されて行きます
ですがその為の「時」を待つ必要があった
時を待たない行動は止められて行きますが
人間はどうしても「これだ」と勝手に思い
行動したくなる生き物でもあります
例えば自分が何かを欲しいと思っていて
でもそれを買うにはちょっとお金が厳しいなと言う時
そんな時に限ってちょっとした臨時収入があったりします
別にそれが手に入ったからと言って
余裕をもって買えるわけじゃ無くても
「ここでお金が追加で入って来ると言う事は
買えと言う事なのだろう」と都合よく考えてしまい
無理をして買おうとしてしまう事があります
ですがこう言った都合の良い解釈をすると
大抵はロクなことにならず
結局後になってお金に困って泣くことになるわけです
神様からの時が動く時
旧約の時代の様に
神様が直接現れて指示をしてくれることはありません
ですから私達は
どのようにして時を察しなければならないのか
と言う点が重要になります
全部が全部とは言いませんが
生きて行く上で無理をしなければならない状況と言うのは
往々にして神様の御心ではない場合が多いんですね
なぜならピリピ書第4章7節にある通り
「さらば凡て人の思いにすぐる神の平安は
汝らの心と思いとをキリスト・イエスによりて守らん」
とありますから
神様の御心が成される時に
神による平安が崩れる事は無いのです
ですから私達は
この神様の時を待つと言う事を覚えて
歩んで参れたらと思います