悪いことが続いたからと言って
   そこに神様が働いていない訳ではない
   ピンポイントで見て判断するのではなく
  常に広い視野を持ち
  全体を見て行こうとする気持ちの在り方が
  信仰者には重要になる

 

出エジプト記第429節より

エジプトに到着したモーセとアロンでしたが
まず最初に行ったのは
イスラエルの長老たちを集める事でした
そこで長老らの前で
モーセは神様から授かった言葉を伝え
奇跡の業を見せます
すると長老たちは
モーセの事を信じただけでなく
ついに神様が
自分達をかえりみて下さった事を喜びました
その後、エジプト王に謁見し
モーセは神様と
事前に示し合わせた通りのセリフで語ります

「イスラエルの神であるエホバが
イスラエルの民を開放し
神の元へ回帰させる様にと言っている」

しかしそこで帰って来た王様の反応は
予想以上に冷たい物でした

「エホバとは何か私は知らない
知らない神の声に従って
イスラエルの民を開放する事は出来ない」

この時代のエジプト王とは
エジプト王国の王様と言うだけでなく
エジプト民が信じる神の頂点に君臨する存在です
ですからエジプトの王様からすれば
エホバと言われても
「そんな神の名前は
エジプトで聞いたことが無いし知らない」
となったのです

そこでモーセは2度目のお願いをしますが
最初とは少し言い回しが変わっています

「ヘブル人の神が私達の前に現れました
生贄(いけにえ)を捧げる為に
どうか3日ほど外出をさせて下さい
そうでなければ神によって
イスラエルの民は討たれてしまいます」と

モーセはエホバの枕詞として
ヘブル人の神を付けて説明口調になっています
また国を出るのも3日ほどに変わり
更に極め付けは最後に
「イスラエルの民が討たれる」とまで付け加えたのです
この討たれると言うのは
イスラエルの民はエジプトの奴隷であり
奴隷は王様の所有物なので
「言う事聞かないと大切な奴隷が失われますよ」と
要するにモーセが脅しを付け加えている訳です

これは我々の日常でも
大なり小なり経験があるかと思います
上司へ報告しに行ったら
思ったよりも渋い反応が返って来て焦り
なるべく「そんなに大したことじゃ無いですよー」と言いたげな補足を
どんどん追加していくパターンです

ですが結局エジプトの王は
モーセとアロンに対して「邪魔をするな」と忠告し
また同時に
イスラエルの民を動かす立場の責任者達に対して
「煉瓦(レンガ)を造る為の藁(わら)を与えるな
しかしノルマを減らしてはならない」と通達しました
エジプト王の考え方は
イスラエルの民が余計なことを考える暇を与えてはならない
と言うものだったのです

この結果により
イスラエルの民には藁が与えられなくなり
煉瓦をつくる為の藁を
自分達で探しに行かなければなりません
最初は近くで採取出来ていたものも
そこが尽きれば少し遠くへ取りに行く必要があります
繰り返していれば藁を採りに行く負担は日増しに大きくなり
それに対して変わらないノルマが課せられている現状に
耐えきれなくなりました

そこでイスラエルの民はエジプト王の元へ行き
現在の窮状を訴える事にしました
イスラエルの民は王様に対して
「我らを使役する者が藁を出さないのに
同じノルマを課されて困っている」と伝えます
つまりイスラエルの民は
藁の出なくなった原因が
エジプト王の命令である事を知らないのです
ですからエジプト王から
「お前たちは余裕があるから
エホバとか言う神に生贄を捧げたいとか言い始めるのだ」
と言い返されて言葉を失います
イスラエルの民にしてみれば
我々を救済するはずの神様がモーセに対して指示したこと
それを実行されたら
解放されて自由になると考えていたはずです
ところがフタを開けてみれば真逆の結果であり
これはどう言う事かとモーセに対して食ってかかります
指をさされたモーセも戸惑い
神様に対して「なぜこんなことに?」と
問いかける事態となりました

さて、モーセまでもが
なぜこの様に狼狽(ろうばい)しているのか
それはモーセの中にすら
「人間的な計画」があったからです
確かにモーセに対しては神様から事前に
「上手く行かないよ」とは伝えられていました
ですが神様から降ってわいた話ですから
やはりそこには神の力が働いて
たちまち大いなる動きが現れて…
と言うイメージがあったはずです
その神様の計画に対する
勝手な人間の期待があったからこそ
そこから外れた時に
「何でこんなことになるのですか?」と
問いたくもなる訳です
それは私達の信仰も同じで
非常に大きなスケール観の中で動くご計画の視点を忘れると
どうしても日々生きる上で
目の前の良い事/悪い事と言う部分に
目線が落ちてしまいます

悪いことが続いたからと言って
そこに神様が働いていない訳ではない
ピンポイントで見て判断するのではなく
常に俯瞰(ふかん)して
全体を見て行こうとする気持ちの在り方と言うものが
重要なのだと思います