信仰は頭で理解する物ではなく 自分の中の直感に従ってつかむもの それは”ここにすがるしかない”という思いであり その思いを持ち続けることが重要になる |
民数記略 第14章
前回13章で
偵察部隊を派遣したイスラエル一行でしたが
その偵察の結果として
良い情報と悪い情報がもたらされました
良い情報は神様との約束通りに
肥沃で誠に”乳と蜜の流れる土地”であったこと
そして悪い情報は
自分達よりも優勢で強大な先住民が
数多くいたことでした
ここでイスラエルの民は
一斉に嘆き悲しみます(以下の通り)
・・・エジプトで死んでおけば良かった
荒野で死んでおけば良かった
なぜ主はここまで我らを連れてきて最後に殺すのか
妻子は奴隷になってしまうのか
エジプトに帰る方がマシではないか・・・
目の前に神様との約束の地カナンが広がり
約束通りの素晴らしい土地である事が分かっていながら
一方でそこに存在する敵の存在を恐れるが余りに
あれほど禁じられた「つぶやき」を発してしまう、、
そしてイスラエルの民は
モーセやアロンでは無いリーダーを新たに置き
そこを頼ってエジプトに帰ろうと言い始めるのです
事ここに至ってモーセとアロンは平伏し
ヨシュアとカレブは怒りのままに衣服を裂きました
そしてイスラエルの民に告げます
我らが偵察して巡った土地は
非常に良い土地であり
主が与えると定められたのだから
それらは我々のものでしかありません
またそこにいる民を恐れてはなりません
主が我らと共におられるのですから
彼らの守りは取り除かれるでしょう
しかしイスラエルの民は
石で彼らを撃ち殺そうとしました
ここで神様の栄光が
幕屋からイスラエルの人々の前に現れ
モーセに告げました
「この民はいつまで私を侮るのか
これだけ多くのしるしを彼らの前で行ったのに
彼らはいつまで信じないのか
いっそのことこの民を滅ぼ
、また新たな民を興そう」
この神様の怒りに対して
モーセは執(と)り成(な)しを試みます
「ここでイスラエルの民をカナンの地へ入れなければ
きっとエジプト人はここの住人に対して
”イスラエルの神は与えると誓った土地に
民を導きいれる事が出来なかったので
彼らを荒野で殺したのだ”と告げるでしょう
今こそ主の大いなるお力を示すと共に
慈しみによってこの民の罪をお許しください」
この執り成しに対して
神様は許しを与えるとしました
ここまでは幾度となく繰り返されてきた
神様の怒り→モーセの執り成しの構図です
ところが今回は違いました
それは出エジプト以降十度神様を試みて
その度に神様の業を
目の前で見ておきながら信じない者は・・
「結局カナンの地へ導き入れても
先祖と約束した地と言う事を認めないだろう
もちろん私を侮った者も認めないだろう
ただし僕(しもべ)カルブは
私に完全に従ったので
私は彼が行ってきた約束の地に彼を導き
彼の子孫がそこを所有する
谷側にはアマレク人とカナン人が居住している為
明日からは身を隠すために
紅海沿いの道から荒野へ抜けなさい」
また神様はモーセを通じて
イスラエルの民に告げます
「主は言われる
私に向かってつぶやいた者の中から
20歳以上の者はみな倒れるであろう
カレブ及びヨシュア以外は
全員がそれに該当する
ただし20歳未満の子供は
約束の地へ入ることが出来る
ただし1日を1年とし
カナンの地の偵察に掛かった40日分
即ち40年間を
荒野で羊を飼いながら生活する
それは荒野で
これから倒れる20歳以上の者の遺体が
朽ち果てるまでの期間であり
また私があなた方から離れ遠ざかった事を
思い知るまでの期間である」
ここで言う「羊を飼って」と言う生活は
要するに
荒野を宛てもなく彷徨(さまよ)う生活の事を指します
つまり水や食料のある1つの場所に
定住して生きるのではなく
何もない荒野で
神様の助けにすがりながら40年間を過ごす
その中を通じて
真にすがれるのは神様だけであり
神様の考え方を知り
肉の思いを捨てて
神に従う事を教育されていくのでした
ヘブル書3章7節以降では
この民数記の場面を
新約の時代に入ってから振り返っています
この「不信仰」によりて「わが途を知らざりき」が
カナンの地へ入れなかった原因だったわけですが
この神様の求める「信仰」と言うものが
どの様なものであるのか
それを見ていきたいと思います
特に重要なのは、14節にある
「もし始めの確信を
最後までしっかりと持ち続けるならば」
と言う部分ですね
神様によって作られた被造物である人間は
〜子どもが無意識に親を本能的に求めて行くのと同じく〜
無意識に創造主を求める意識が働きます
だから皆さんも
何らかのきっかけがあって教会へ集う様になり
やがてそれが習慣となり
そして今でもこうして集まっている訳です
じゃあ最初から聖書の知識があり
どんな神様であるのかを知っていたかと言うと
そんな事は無いでしょう
ただそこにあったのは信仰の確信
「ここにすがるしかない」と言う思い
その対象への理解はハッキリせずとも
頼ろうとした気持ち
それこそが信仰の始まりであり
また終わりでもあると聖書は語っている訳です
信仰は理解する物ではありません
自分の中の直感に従ってつかむものです
ここをつかまずに聖書を読むことだけに頼り
神学を通じて信仰を見出そうとすると
分からなくなるのです
何故なら聖書の真理がどこにあるのか
それが明示されていないからですね
つまり読む人毎に解釈の違いがあり
何が正解なのか分からない
そんな物を読んだところで
確信がつかめる訳もありません
余計に悩みが増していくだけです
しかし確信をつかんだ上で聖書を読む時
聖書の矛盾点や不明瞭な部分よりも
神様の考え方が際立って見えてきます
神様は自分を愛する人を愛される
神様の権威と主権に基づく神の領域が存在する
神様の愛に基づく慈しみが存在する
そしてそれらを内包する大いなるご計画が存在する
それをただ信頼し
信用して歩む事を神様は求めている
だからこそ神様は
出エジプト第1世代の教育を諦(あきら)めました
幾度となく信仰の確信を掴(つか)ませるチャンスを与え
何度も守り導き
目の前に約束の地を拡げてもなお、確信に至らない、、
難しい聖書のテストに合格しろと言っている訳ではなく
ただ「信じなさい」と言う
その単純なことがいつまで経っても出来ない
だからこそ神様は第1世代を諦め
ヨシュアとカルブと言う
”信仰の確信を掴んだ者”を種として
第2世代の内にまき
荒野の旅路を通じて次世代の教育へと
舵(かじ)を切って行ったのです