現代の神学では 『三位一体論』は 神秘として扱われることが主流になりつつあり 神学的に「何が正しいのか」と言うのは 時代と共に変わっていくので 神学のみで信仰を保つことは難しい |
今日歌う讃美歌『みめぐみ豊けき』は
19世紀にできた古い曲ですが
歌詞に
「主の手に引かれてこの世の旅路を歩む」
「主共にいましてわれをぞ導く」
「主の手にすがりて安けく過ぎまし」
「恐れず越え行かん御助けたのみて」とある通り
私たちの人生には常に友なるイエス様がおり
私たちの手を引いて導いて下さっている訳です
その上でどこに導かれているのか?
ヨハネ伝14-6でイエス様は
「私は道であり、真理であり、命である」
と語っています
イエス様が私たちを導き
イエス様の道を歩まされる
その道はどこに向かうのでしょうか?
それはずっと昔
アダムとエバの物語までさかのぼります
人間にまだ罪が入る前
エデンの園には
「善悪を知るの木」と「生命の木」がありました
ご存じの通り善悪を知るの木の実を食べてしまった二人は
エデンの園を追放される訳ですが
この時に神様は生命の木について
創世記3-24で
「生命の木に至る道を守る為に
エデンの園の東に
ケルビムときらめく剣の炎を置かれた」
とあります
つまり神様は
生命の木そのものを守らせたのではなく
生命の木に至る道を閉ざされた
その道はいずれ
約束のメシア、イエス様によって罪の贖いが為され
神様と人が和解する事で再び道が通れるようになる
ですからイエス様は「私は道」と語られた訳です
そして黙示録22章において全ての裁きが終わった後
神の都としての新しいエルサレムにおいて
この生命の木により”永遠の癒しと命”がもたらされる
その様に人類救済史は
生命の木に始まり、生命の木で終わる
「私はα(アルパ)でありω(オメガ)である」と
イエス様が語られた意味がここに見えてきます
イエス様が昇天され
聖霊降臨の後にキリスト教が成立します
当初はイエス様の弟子を中心に
各教会が福音をのべ伝えていた訳ですが
この時代と言うのはユダヤ地域において
「一神教」を語るのが大変でした
と言うのも大きな影響を与えていたローマ帝国は
皇帝を神と崇める多神教国家
地中海沿岸に強大な影響力を持っていたギリシャも
神話に代表される多神教国家
そんな中で初期のキリスト教徒は
ユダヤ教の伝統を受け継ぎ
一神教をのべ伝えようとしていました
ところが異教徒からみると
聖書に「父・子・聖霊」と3つの神の名前が出てくるため
一神教では無く
三神教と誤解されやすくもありました
しかも「あくまで唯一の神」として伝えるので
矛盾している様に感じられ
そこを指摘される事が
布教の大きな妨(さまた)げとなっていたのです
更に問題だったのがグノーシスの存在でした
このグノーシスと言うのは
極初期のキリスト教とユダヤ教が
交わり体系化された宗教的思想であり
聖書の言葉をただ信じるのではなく
深く読み解いて真理に到達する時
魂が解放されて救いに至ると言う思想です
こう言ったもはやキリスト教では無い宗教的思想が入り込んで来た為
初期のキリスト教信者の間で
何が正しくて何を信じれば良いのかと言う混乱が広がります
そこで何とかして早急に
キリスト教の教義と言う物を統一する必要があり
以前お伝えした通り
ローマ皇帝の意向もあって
ニケア公会議の開催へと繋がりました
ここではキリスト教としての統一した教義を確立するのに加え
聖書に登場する3つの神の名を
一神教として統合する為の解釈について議論されます
ただニケア公会議と言うのは
「何が真理か」を
徹底的に論じる会議ではありませんでした
どちらかと言うとローマ帝国を安定させる為に
キリスト教の教義を早急に固める必要があり
約300人の司祭が神学的な議論を尽くすのではなく
多数決による民意で教義を決めて行ったのです
ここで3つの神の名を1つに集約する解釈として
哲学を背景とした論戦に強い
三位一体説が採択されました
父子聖霊は3つの独立した位格であり
それらが同じ神としての本質を共有する事で
唯一の神を形成すると言う解釈です
とは言えこの時の三位一体説は骨組みと言うか
ある種の大枠であり
現代の教義として確立されるレベルではありません
従ってこの時点で
三位一体説に対する批判や反対意見も多くありました
しかし大枠とは言え
ローマ皇帝が主催するニケア公会議で
ニケア信条として正式に採択され
しかもローマ帝国を統一する為のツールとして
三位一体説が組み込まれた以上
この後の公会議でそれをひっくり返す訳にも行きません
つまり「三位一体説は正しい」と言う前提に立って
神学的な補強を推し進めて行かざるを得なくなったのです
この後にカルケドン公会議を経て
三位一体論は正統として神学的に完成します
ただここまでの流れを見て分かる通り
三位一体論は真理だから採択された訳ではありません
あくまでも異教徒から矛盾を指摘されない為の
神学的な防壁として完成されたものであり
議論に強い「神の定式化」と言う理由で
正統とされた歴史があったのです
現代の神学では
三位一体論自体は
神秘として扱われることが主流になりつつあり
1周回って詰まるところ「よく分からん」と言う結論へ
着地しつつある訳です
ある意味で異教徒に対する防壁と言う役割を
終える時期に来ている様な感じでもあります
結局、正統とか異端と言う概念は
人間が認定するものであり
その裏にはどうしても真理だけでは無く
組織的・政治的な影響が含まれます
歴史があるから真理と言う訳でもありませんし
歴史が無いから異端と言う事もない
かつて宗教改革においてルターは
ローマカトリックから異端認定されていますが
プロテスタントの中では正統な訳です
現代の神学では
この「異端」を誤りではなく
「別の視点」として再評価が始まっており
神学的に「何が正しいのか」と言うのは
時代と共に変わっていくのです
ですから神学のみで信仰を保つことは難しい
信じる対象が揺らいでしまうのですからね、、