今回は出エジプト記に書かれた
 律法の意義について
 パウロがガラテヤ書の中で語っている部分から
 読み解いていきたい


出エジプト記20章からは
モーセを含めたイスラエルの民が
シナイ山において神様から
「十戒」を授かる場面となります

「十戒」と言っていますが、聖書を見ると
1から10まで番号がふられて
明確に10とされている訳ではありません
このどこからどこまでを1つの戒律とすべきかと言うのは
宗派によってバラツキがあり
特に2つ目の「偶像の禁止」について
カトリックでは触れていません
十字架にかかっているイエス様の像であるとか
イコンの様な形のある偶像だけでなく
イエス様の母マリアや
十二使徒を信仰の対象とする様な
偶像化も含んでいますが
そこに抵触するので都合が悪いのでしょう

今日の話と言うのは
この「十戒」と呼ばれる10の戒律の中身や
その守り方を考える物ではありません
かつてあった律法を知り
それが何のためにあり
今どの様に変わっているのか
1つの昔話として見て行けたらと思います

そもそも旧約聖書に登場する掟(おきて)、律法と言うのは
この十戒だけでなく、後に
出エジプト記、レビ記、民数記略、申命記と続く中で
「○○しなければならない」とか
「○○してはならない」と言う書き方で山ほど登場します

この創世記から申命記までは「モーセ5書」と呼ばれ
ユダヤ教徒はこれを「トーラー」と呼びます
トーラーとは律法の意味です
この律法を全て数えると
その数は600以上になると言う事で
ユダヤ教徒は今でも
これを全て守ろうとしていると言う事ですね
その中でこの「十戒」と言うのは
あくまでも神様からイスラエルの民に示された
”基本の10の律法”と言う事です

さて十戒を見ていく上で
この出エジプト記だけを見ていると良く分かりません
と言うのも律法の条文だけが出て来るので
その意義・目的と言う所が語られていないからです
なので今回は
出エジプト記に書かれた律法の意義について
パウロがガラテヤ書の中で語っている部分から
読み解いていきたいと思います

ガラテヤ書は
パウロがガラテヤの教会へ送った手紙ですが
書かれた時期は
イエス様が十字架にかかってから2030年後と
新約聖書の中でも
最も古い文章の1つと考えられています

このガラテヤの教会と言うのは
パウロが伝道活動の中で創設したものですが
(使徒行伝16-6、ガラテヤ書1-84-13)
パウロが不在の間に
段々と語られる教義が変わってしまいました
それはユダヤ教から改宗したキリスト教徒らが
旧約の律法を捨てきれず
中には割礼を求める教会が現れるなど
教義が揺らいでいました
その様な現状を嘆き、道を外さない様にと
パウロが手紙を書いたのです

まずはイエスキリストを信じる者として
何をしなければならないのか?
それは「神の義」に従うこと
義とは
”神の基準において正しいとされる事”です

『人の義とされるのは
 律法の行いによるのではなく
 ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて
 わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである』
 (ガラテヤ書2章16節)

パウロは神の前において義と認められる条件が
神様を信じる信仰であり
律法を守る行いではないと説きました
それは律法が余りにも厳しく
600以上と数も多く
またその解釈が人によって異なる為
全てを守る事は到底出来ないと考えたからです

”殺すなかれ”、”姦淫するなかれ”といった
”するorしない”と言う
二択で選べる律法ならまだしも
”父母を敬え”と言う様な
精神性が求められる領域に対しては
何をどこまで行えばよいのかハッキリしません
ここが律法学者によって解釈が分かれる所であり
律法を守る上で難しい部分となります
もちろん全てを神様から見た時に
完全な形で守る事が出来ていれば義とされますが
それができたのはイエス様だけ
できないのもまた人間なのです

ではそもそも律法が与えられる前
つまりは十戒が与えられる以前の世界において
何をもって義とされていたのか
つまり律法が無ければ義も罪もないはずです
そこでパウロは
”アブラハムの義”を引用して説明しています

『すると、あなたがたに御霊を賜い
 力あるわざをあなたがたの間でなされたのは
 律法を行ったからか
 それとも、聞いて信じたからか
 このようにアブラハムは”神を信じた
 それによって彼は義と認められた”のである』
 (ガラテヤ書3章5‐6節)


ガラテヤ書3章17節より

創世記にも書いてある通り
アブラハムは神様を信じた
それにより神様はアブラハムを義とされた
この信仰に由る義から430年後
出エジプトと共に
十戒を始めとする律法が与えられます
しかしこの後から出て来た律法は
信仰による義を無効にするモノではありません
あくまでも神の前に義とされるのは信仰である
つまり律法が与えられる以前から
そもそも義は信仰にあるのです
では結局、律法とは何なのか?

律法とは
やがてイエス様が地上に現れる時まで
イスラエルの民を養育するものだと書かれています

つまり保育園で
親が迎えに来るまで子供を預かる様に
イスラエルの民を守り、教育し
そして迎えに来てくださるイエス様へ
引き渡す為の存在として地上に置かれました
そこでは律法により社会的秩序を保ち
律法によりお互いを愛する事を教え
律法により神様がどんな姿を望んでいるのか
それをイスラエルの民に教育し守っていたのです(24節)

日本の法律で
道路交通法と呼ばれるものがあります
この法律の第1条には
「この法律は、道路における危険を防止し
その他交通の安全と円滑を図り
および道路の交通に起因する障害の防止に
資する事を目的とする」と書かれています
つまりこれが理想とする世界観であり
それを実際に実現させるための手段が
第2条以下に示される各条文であり
交通ルールな訳です
これらのルールを完全に守れば
第1条に書かれた理想の世界が実現しますが
現実には完全に守れないので事故が起きるんですね

これと同じで
あくまでも神様が理想とする形は”信仰による義”ですが
それを実際の行動に落とし込むのが
律法の役割と言う事です

ですからすでに新約の時代に生きる私達にとって
律法が一切関係ないのかと言うと
そうでもありません

マタイによる福音書5章17節では
イエス様は律法を廃棄する為ではなく
むしろ律法を成就する為に来たと語っています

そしてマタイ22章36節において
律法学者から
どの律法が一番重要かと質問されると
イエスさまは以下のように答えています

「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして
 主なるあなたの神を愛せよ』
 これが一番大切な第一の戒めである
 第二もこれと同様である
 『自分を愛するように
 あなたの隣り人を愛せよ』」

第一の戒めは申命記6章5節
第二の戒めはレビ記19章18節
に記されており
この2つの戒めを守る事が律法の中心であると
イエス様は説いています

つまりイエス様は
600以上あった律法の本質が
「神様への愛」と「隣り人への愛」に
集約されている事を説き
新約の時代に生きる私達に対して
この”愛の実践”を求めたのです

もちろん旧約時代の律法の様に
守れなければ罪であり
死が与えられる様な物ではありません
ですが一方で
罪が無い代わりに
詳細な行動規範であるルールブックも無くなりました
全ては私達が受けている聖霊の働きに従い
純粋に神様を求め、祈り
そして自らが
神様を見ようとし続けなければなりません

このように新約の時代の信仰は
律法により強制されるものではなく
聖霊によって自然に導かれて行く状態へと
変わっていったのです

これは一見すると
律法が与えられる以前の世界観に
戻っている様にも見えますが
あの時代は神様が姿を現し
人間に畏れを抱かせていました
また信仰による義を見出し
神様が人間に対して
一方的な契約を結んでもいた
つまり強制的な信仰の世界だったわけです

しかし現在は
信仰は強制される物では無く
個々が自ら見出していく必要があります
神様を求め
愛する事で、愛される人と成る
人と神様の関りについては
こうして一段階上の世界に進んでいる訳です