神の証(奇跡)を信仰の中心にすえると 定期的に奇跡や不思議に出会わなければ 信仰が保てなくなってしまう しかし奇跡や不思議が どのように与えられるかは 完全に神様のご計画によるものであり 人間が期待してはならない領域である |
*前置きの話はこちら→「12月14日」
民数記略 第17章
前回まで
コラの反乱についてお話ししました
アロンの大祭司としての立場を妬み
レビ族のコラを中心に
反乱が起こった出来事です
この一件は収まりましたが
イスラエルの民の中から
不満や疑念が完全に消えたわけでは
ありませんでした
そこで今日の箇所は
”神様の選びによって
アロンが大祭司として立てられている”
ことを示す出来事です
神様はモーセを通じて
各部族の代表者の杖(つえ)を集めさせ
その杖に名前を書かせました
レビ族の杖には
アロンの名が記されました
そしてそれらの杖を
契約の箱の前に置き
その中から神様の選びによって
”一本の杖から芽が出る”
と告げられました
こうして神様の明確な選びを示すことで
「なぜアロンの一族なのか」という
コラの反乱の原因を断とうとされたのです
翌朝、アロンの名が記された杖から
芽が出ていました
しかも芽が出るだけでなく
花が咲き
アーモンドの実まで結んでいたのです
一晩で芽が出て実を結ぶという出来事は
まさに神様の御業であることを示していました
アーモンドは中東地域で冬の終わり
春先に最初に咲く植物で
日本で言えば梅にあたります
ヘブライ語では「アーモンド」という言葉と
「見張る・警戒する」という動詞が
同じ語源を持っています
エレミヤ記1章11節にある通り
神様はご自身の契約を
必ず実行される方であり
”アロンを通じてイスラエルを見守ること”
を示しているのです
しかしアロンは人間です
大祭司の務めはアロン以後も
代々受け継がれていきますが
どの大祭司も
人間的な寿命には抗(あらが)えません
必ず世代交代が起こり
次の大祭司へと引き継がれていきます
また人間の大祭司は贖(あがな)いを行う際
律法に定められた燔祭(はんさい)の血に
頼るしかありませんでした
律法によって立てられる大祭司の務めには
常に人間的な限界が伴っていたのです
ヘブル書7章23節にあるように
この限界ある人間の大祭司に代わり
永遠の大祭司、永遠の仲介者として
立てられたのがイエス様です
人間の大祭司が毎年祈りと燔祭によって
罪の贖いを繰り返していたのに対し
イエス様はご自身を
一度燔祭として捧げることによって
すべての贖いを完成されました
これは詩篇110篇4節にある
神の誓いに基づくものであり
永遠に私たちに与えられた”救い”です
こうして神様の選びは
イスラエルの民に示されましたが
それでも民の反乱は
完全に収束することはありませんでした
不満→反抗→神の御業→納得→再び不満…
という繰り返しが続きます
この問題は旧約聖書全体に
通奏低音のように響いており
人はどれほど強力な神の御業(みわざ)を見ても
その効果が永続しないことを示しています
奇跡や不思議を目の当たりにすると
一時的には安心や高揚を得ますが
やがて慣れてしまい
当たり前のこととして忘れてしまいます
この教会でも多くの奇跡や
不思議が残されていますが
その証を受けた方が
今も教会に集っているかというと
そうでもありません
それは奇跡に慣れてしまうからです
奇跡は一種の麻薬のようなものであり
その効果は永続しません
だから次の証(奇跡)を求めてしまうのです
証を信仰の中心にすえると
定期的に奇跡や不思議に出会わなければ
信仰が保てなくなってしまいます
しかし奇跡や不思議が
どのように与えられるかは
完全に神様のご計画によるものであり
人間が期待してはならない領域です
証中心の信仰は
人間が踏み込んではならない世界に
信仰を求めてしまう
不安定なものなのです
イエス様が示された「愛」とは
自分を満たすものではなく
相手を満たそうとする心のあり方です
そして愛は双方向でなければ
ただの搾取(さくしゅ)に過ぎません
この”証に頼った信仰”と言うのは
「高いものをプレゼントしてくれるから付き合う」
と言っている様なものです
恋人や夫婦と言うのが
本当はお互いに心を交わして
関係性を構築して行くものであるはずなのに
そこにメリットデメリットを持ち込んでしまうんですね
大いなる証を求めて
イエス様に向き合う人は
それに応じた愛を
イエス様に返しているでしょうか?
と言う事を考えなければなりません
また先に証を受け取った人は
それに報いる愛を
イエス様に返さなければなりません
信仰の中心は奇跡ではなく
イエス様との愛の関係にあるのです