「安息日の律法」のポイントは
  「神から助けられた過去と
  今の有様に感謝する」
ことだが
  実際には律法ばかりが重視され
  律法を作った神に対しては
  目が向かなかった


前置きの話はこちら→「カレンダーと安息日」

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出エジプト記 第208節より

前回までの出エジプト記の流れから
少し戻りますが
今回は”安息日の律法”について
ふれて行きます

モーセに与えられた律法(十戒)として
「安息日を心に留め、これを聖別せよ」
と言う内容があります
1週間7日の内で
6
日間は自分の事を行い
7日目は安息日として異邦人も含めて
安息の日としなければならないとされました
それは創世記の冒頭の天地創造をふり返り
かつて神様が
6日でこの世界を創造し
7日目を休みであり
聖なる日とした事に起因していると
聖書には書かれています

では
なぜ安息日を守らなければならないのか?

それは申命記5章15節を見ると
「かつてエジプトで
奴隷生活を送っていたイスラエルの民を
神様が導き出して
解放した事を思い出させるため」

と書いてあります

奴隷に自由はありません
出エジプト記の冒頭でも
レンガ作りに
従事させられる様子が描かれていましたが
イスラエルの民は
様々な労働に対して酷使されていました
当然ながらそこに自由な休みなど存在せず
全ては彼らを使役するエジプト人が
采配を振るっていたのです

ですから
エジプトを出たイスラエルの民は
7日目になるたびに
自分達が過酷な奴隷生活から
解放された事を思い返し
休みが与えられ自由に過ごせる事を
神様に感謝する日として
聖別する必要がありました

当然ながらこの律法のポイントは
「神様から助けられた過去と
今の有様に感謝する」
と言う部分であり
「何もせず休む」と言う意味ではありません

以前にテレビで
厳格なユダヤ教徒の生活について
特集が組まれていましたが
安息日は何もしてはいけないからと
料理はタイマーで出来る様に設定しておく事で
料理をせずとも食事が作れる様にと
工夫していました

このように
常に行為(おこない)に注目して
律法を守ろうとする信仰観の代表格がパリサイ派であり
現代のユダヤ教は
このパリサイ派の影響を強く受けています
安息日は
何もしなくて良いと言う感謝を捧げる日」であるはずが
「何もしてはいけない日」になっている訳ですね

この安息日の真意と言うのは
新約聖書に多く記述がありあります

マルコ伝第227節には
「安息日は人の為に定められたのであり
人が安息日の為に存在しているのではない」

と説きました

またルカ伝第1310節では
「安息日だからこそ
人が病から解放され安息を得られるべきだ」

として病人を癒しました

いずれも「安息」と言う行為にしばられている
当時の考え方を否定し
その本質が
”イエス様から人に対する愛”である事が
示されています

そしてパウロは
コロサイ書第216節において
これらの律法の事を
「来るべきものの影」と表現しています

だから、あなたがたは
食物と飲み物とにつき
あるいは祭や新月や安息日などについて
だれにも批評されてはならない
これらはきたるべきものの影であって
その本体はキリストにある」

影絵と言う遊びがありますが
両手を様々な形にして組み合わせると
影として映した時に動物などの形になります
影を作ってる側は
手の形が見えていますが
影を見ている側は
その元がどの様な形になっているのか分かりません

つまりイエス様が示された愛を
人間の様々な日常生活の中に射影すると
その影として律法が現れて来る訳です
(注:射影・・・物体に光を当ててその影を映すこと)

旧約聖書の時代はこの影をおそれ
そして影に従う事を重視していました
しかし足元の影を注視する余り
その影を作っている本体である神様には
目が向いていませんでした

そこでイエス様が光として地上に現れ
地上が光で満ちる事で影は消えて無くなります
これにより私達は
旧約の律法から解放されますが
同時に
新たな”愛の律法”を守る必要が生まれました
そこでは行いではなく
”信仰”が求められる事になります

従って今回取り上げた安息日についても同様で
現代では
「安息日を何が何でも守る義務」と言うのはありません
だからと言って
最初から安息日を守らなくても良いわけでもありません

しかし一方で
私達には社会生活を送る必要もあります
学校の行事が、地域のイベントが、仕事が・・と
様々な理由で
安息日を守れないと言う事情は当然あるでしょう

律法が愛に集約された時代だからこそ
許される個人の事情がある一方で
そこに甘んじて
安きに流されてはならないと言う
”信仰を保つ努力が求められる時代”でもあります

「こう言う理由があるから仕方が無い」ではなく
「こう言う理由があるので申し訳ない」と
イエス様に対して思う心があるかどうか
その心がある限りは
安息日を守れずとも信仰は揺るがないでしょう