出エジプト記を通じて感じられる所として 常に神はゴールを示し手招きしていても 人間がそこから目を背けて迷走を繰り返すという 私達の信仰における理想と現実が イスラエルと言う1つの民族を通じて描かれている それと同時に 神の大いなる寛容さと愛を見て 感謝していかなければならないことを教えられる |
出エジプト記 第35章4節より
モーセはイスラエルの民に対して
次の様に告げました
「これは主が命じられた言葉である
貴方達の持ち物の中から
主の元に献納物を持って来なさい
すべて進んで捧げようとする者は
それを主への献納物として携えなさい」
続いて具体的に
どう言った物が献納物であるかについて書いてあります
10節には
「また貴方達の内の
心に知恵のある者を全て集めて
主が命じられた物をことごとく作らせなさい」
と告げています
何を作るのかと言えば
続く11節から書かれる通り
幕屋建設に必要な建設資材や
幕屋に置かれる様々な物品の事ですね
幕屋建設の概要については
25章で神様からモーセに対して語られていましたが
実際に建設が開始されるのは
この35章以降になってからとなります
ここで重要な点は
「心に智慧(知恵)ある者」と言う表現であり
ここで言う知恵には2種類の意味があります
1つはよく「心得」と言いますが
これから「製作する」と言う行為に対して
”一定の技術を有する者”と言う意味です
そしてもう1つの知恵は”信仰”です
箴言第1章7節では
「主を畏れることは知恵の初め」
と書かれている通り
「知恵ある者」とは「信仰のある者」と言う意味になります
ですから技術があっても信仰が伴わなければ
幕屋建設に携わる人材としてはふさわしくない
なぜならその技術すらもまた
神様によってもたらされたモノであるからです
ここまでを見ると幕屋建設においては
自発的に進んで捧げられた資材が集められ
また信仰のある人材が動いて
建設の進められた事が分かります
強制的に徴収したのではなく
イスラエルの民が信仰に基づいて材料を献上し
自らの信仰に基づいて作業に当たりました
その中でベザレルとアホリアブと言う2人は
神様から特別に指名され
様々な技術を与えられると共に
作業の指導者としても用いられる事になります
こうして多くの「知恵ある者」が
幕屋建設に従事する事となりますが
ここで予想外の事態が発生します
献納物を進んで捧げに来るイスラエルの民が後を絶たず
既に幕屋建設に必要な量は確保していたので
これ以上不要でした
そこでモーセはイスラエルの民に
「これ以上献納物の為に務める必要は無い」と
お触れを出すことで解決します
モーセの立場をもってすれば
余剰品を自分のものとすることもできたでしょうが
彼は私腹を肥やすようなことはしませんでした
これ以降、聖書の記述は
幕屋建設にかかる詳細な作業内容が書かれています
第39章32節を見ると
イスラエルの民は神様がモーセに示した通り
”臨在の幕屋”建設に必要な物品の製作を完了させました
幕屋本体の建設資材だけでなく
幕屋に必要な設備としての祭壇や机
契約の箱と担ぐ為の棒、ロウソクを置く為の燭台
そして幕屋で働く人の為の衣服や祭司の衣装等
全て神様が示した通りに製作したのでした
モーセはそれらの品々が
神様から示された通りに出来ている事を確認し
製作に携わったイスラエルの人々を祝福しました
ここにおいて神様はモーセに対して
幕屋の建設開始を命じます
建設は第1の月の1日とする様に伝えていますが
つまりユダヤ歴における元日ですね
そのため直近の元日として
出エジプトから2年目となる元日に幕屋建設が開始されます
これまで準備した建設資材を
25章で定める幕屋の形に組み立てて行き
契約の箱を始めとする各種物品を所定の位置に配置しました
そして幕屋が完成すると雲が幕屋を多い
主の栄光が満ちる事で
モーセすら幕屋に入る事が出来なかったとあります
この雲と言うのはホレブの山でも現れていた通り
”神様の存在そのもの”と言う事です
この後も幕屋に雲が留まっている時は
イスラエルの民もその場に留まりました
そして雲が離れると出発の合図となり
イスラエルの民は
約束の地へ向けた旅路を歩む事になります
昼は雲が上空に留まり
夜は雲の中に火が現れて
イスラエルの旅路を導きました
この再出発をもって出エジプト記は終わりとなります
創世記でアブラハムの招致から始まった長大な物語ですが
イサク、ヤコブと続き12人の息子達
そこから生まれる12部族がそろう所まではプロローグ
つまり”起承転結”で言う所の「起」としてのお話でした
基本的にアブラハムに対して約束された
「子孫の数が増える」と言う部分が
クローズアップされた内容です
そして今回出エジプト記に入ると「承」に移ります
承の役割は「主題の展開」であり
旧約聖書における主題とは「神様の救済計画」です
その計画を履行するための土台として「契約」が交わされる訳です
エジプトで虐げられるイスラエルの民を
神様はモーセを遣わして救済し出エジプトへと導きます
ですがその神様をイスラエルの民は中々受け入れられず
一時的に神様へ頭を垂れて従っても
時が経てばまた神様を忘れて好き勝手な行動をとり始める
状況を変えながらも
出エジプト記に描かれる物語はその繰り返しであり
これからも本質的なストーリー展開は変わりません
最後にはイエス様すらも拒否し十字架に付けてしまいますが
しかしそれもイエス様の救済計画の一部であり
全ては神の手の平の上と言う状態です
悪い意味でずっと変わらないイスラエルの民ですが
その一方で良い意味でずっと変わらないのが
神様の救済であり愛です
どれだけイスラエルの民が不信仰な行いや言動をしても
決して見捨てず
400年以上前にアブラハムと
一方的に交わした約束を守り続けています
そして今、この救済計画は
イスラエルの民に限らず異邦人まで拡大され
そのお陰で私達もイエス様に触れることが出来る訳です
へブル書13章5節の後半で
「主みづから『われ更に汝を去らず、汝を捨てじ』
と言い給えばなり」とあり
また8節では
「イエス・キリストは昨日も今日も
永遠までも変わり給うことなし」
とあります
出エジプト記を通じて感じられる所として
常にイエス様はゴールを示し手招きしている訳ですが
人間がそこから目を背けて迷走を繰り返す
私達の信仰における理想と現実が
イスラエルと言う1つの民族を通じて描かれている
それと同時に
神様の大いなる寛容さと愛を見て
感謝していかなければならない
その様に思う次第です