人は何かを捧げると期待をしてしまい
  たくさん献金をして、たくさん捧げ物をすれば
  何か良い事があるんじゃないかと考えてしまう
  しかしそれは人間の傲慢(ごうまん)からくるもの
  なぜなら神のご計画と言うのは
  絶対的に存在しているものであり
  そこに金銭によって人間が介入しようとしている
  むしろ介入できると考えてしまう時点で
  人間の驕(おご)りが現れていると言える

民数記略第7章より

前々回『ナジル人の誓願』について述べましたが
この7章は時間軸が一気に戻ります
「モーセが幕屋の建設を終えた日」とありますから
出エジプトから2年後のお正月の話になります

モーセは幕屋と
そこに置かれた全ての祭具に対して
油を注いで聖別しました
この聖別の儀式と同時に
各部族から家系の長が集まり
捧げ物として牛車6台と牡牛12頭が集められます

神様はモーセに対して
「捧げ物を受け取り
レビ人に対して各々の職務に応じて配分しなさい」
と告げました

そこでモーセは
ゲルシヨン族に牛車2台と4頭の牡牛を
メラリ族に牛車4台と8頭の牡牛を渡します
しかしコハテ族への配分はありませんでした
これは前々回の第4章で書かれている通り
ゲルシヨン族とメラリ族の職務は
「幕屋その物の運搬」だったからです

一方でコハテ族は契約の箱を担いで移動するので
牛車に乗せる必要がありませんし
乗せてはいけません
サムエル後書第6章では
ダビデが契約の箱を牛車に載せて運んでいたところ
車上で揺れる契約の箱を抑える為に触れたウザが
神様によって討たれています
契約の箱はコハテ族が肩に担がなければならない
しかもコハテ族と言えども直接抱えるのではなく
棒を挿して肩に担ぐ
そこまでして運ぶ必要がある神聖なものです
その為に
コハテ族に対する牛車の割り当てはありませんでした

また祭壇に油が注がれる日
各家系の長が捧げ物を持って来ました
これは神様がモーセに対して
「各家系の長は、毎日1人ずつ捧げ物をしなさい」
と申し伝えていたからです

ここから各家系の長が順番に登場し
その順番はユダ、イッサカル、ゼブルン、ルベン
シメオン、ガド、エフライム、マナセ、ベニヤミン
ダン、アシェル、ナフタリと続きます

この順番は
この後から始まるカナンの地へ向けた隊列の順番でもあります
ユダ部族はイスラエルのリーダーとして置かれ
その為に一族の先頭を切って進みました
過去に創世記でイスラエルの父であるヤコブは
生前に12人の息子に向けた遺言を伝えています
その中でユダ部族には
「杖ユダを離れず」
「彼に諸々の民したがうべし」と示しました
この遺言の通り
ユダ部族はイスラエルを率いて進み
全ての11部族はその後に続いたのです

8章に入ると
ここではレビ人の清めの儀式について書かれています
レビ族が幕屋の作業に従事するとは言え
何の準備も無く幕屋に関わって良い訳ではありません
作業に携わるレビ人は水で清められ
身体の毛を剃り、衣服を洗濯し
その上で捧げ物をして罪の贖いを行います
更にアロンが神様に対してレビ人を捧げ
イスラエルの中から聖別する事で
幕屋の作業に従事する事が出来ました

さて7章では”捧げる”と言う行為に関して
神様からイスラエルに対する指示が為されています
「毎日家系の長が捧げ物をしなさい」とありますが
なぜ捧げると言う事を求めるのでしょうか

パウロはロマ書121節で
「自分自身を神が喜ばれる
清い活きた生贄(いけにえ)として捧げなさい」

と書いています
では”神が喜ぶ生贄”とはどういう事でしょうか?

申命記65節では
汝心を尽くし精神を尽くし力を尽くして
汝の神エホバを愛すべし

と書かれており
これはイエス様が重要として挙げた「第1の律法」です

またミカ書66節では
「何をもって主の御前に出でて
いと高き神にぬかずくべきか」と言う問いに対して
「人よ、何が善であり
主が何をお前に求めておられるかはお前に告げられている
正義を行い、慈しみを愛し
へりくだって神と共に歩むこと、これである

と答えています

神様は物乞いではありませんから
人から財産をかき集める必要はありません
それでも人に捧げる事を求めているのは
捧げるものすらも元は神様が与えた物であり
そこに人が気付き
神様に対する感謝と畏敬の念
そして神と共に在ろうとする人の心を求めたからです

マタイ伝22章で
「カエサルの物はカエサルに、神の物は神に納めよ」
とイエス様がおっしゃった様に
創造主に対してお返しをすると言う行為を通じて
信仰の成長を求めているのです

これは現代に生きる私達も同じであり
人は何かを捧げると期待をしてしまいます
たくさん献金をして、たくさん捧げ物をすれば
何か良い事があるんじゃないかと考えてしまう
しかしそれは人間の傲慢なんです
なぜなら神様のご計画と言うのは
絶対的に存在しているものであり
そこに金銭によって人間が介入しようとしている
むしろ介入できると考えてしまう時点で
人間の驕(おご)りが現れていると言えます

また昨今問題になっている過剰な献金や
過剰な奉仕がなぜダメなのかと言えば
それはこう言った献金や奉仕が
個人の余剰の範囲で行われるべきだからです
個々の人が持っている余裕
つまり余剰の幅は異なり
その中で神様に感謝を持って捧げ
お返しすると言うのは正しいですが
個人の生活を削るのは
その人の生活を犠牲にすることになる
結果的にその人そのものを犠牲にする捧げ方と言うのは
申命記1231節で否定されているからです

「あなたの神、主に対しては
彼らと同じことをしてはならない
彼らは主がいとわれ、憎まれる
あらゆることを神々に行い
その息子、娘さえも
火に投じて神々にささげたのである」


ここでは「異教の礼拝に対する警告」が記されており
いわゆる偶像崇拝では
このような犠牲がしばしば伴っていましたが
それと同じことをしてはならないと
聖書は教えているのです