新約の時代に生きる者にとって
  かつての「過越しの祭」は単なる過去のものではない
  『最後の晩餐』において
 ”我が記念としてこれを行え”と「聖餐式」が示され
  主イエスの死と復活を再認識する儀式として
  過越しの祭と置き換わっている

民数記略 第9章より

エジプトをたってちょうど一年後のお正月に
神様はモーセに対して
「過ぎ越しの祭り」を開きなさいと命じます
この過ぎ越しの祭りについては
以前に出エジプト記第12章を進める中で登場しましたが
時間が経っているので再確認したいと思います

創世記の終わり頃
ヤコブとその子らを含めた約70人がエジプトへ移住しました
当時ヨセフがエジプトの宰相として君臨し
大飢饉の中で食糧問題を解決しており
その招きによってイスラエルの民は移住を決めます

ヨセフの時代には厚遇されていたイスラエルの民ですが
出エジプト記に入ると400年の時が流れる中で
ヨセフの事を知らない王も現れ
エジプトの中で移民であるイスラエルの民が数を増して行く事を
憂う状況となっていました
そこで彼らに重労働を課して人口抑制政策が採られますが
この苦しい状況から救い出すために神様はモーセをつかわし
イスラエルの解放をエジプト王へ進言します
しかしパロ王は神様によって心を固く閉ざされており
様々な神の業が為されても首を縦には振りません
そこで最後に
”エジプト中の初子を殺す”と言う神様の預言が為されましたが
かつてシメオンとレビがやった様な逃げ場の無い大虐殺ではなく
神様のご計画される事には必ず”救いの道”がありました

それは傷の無い子羊をほふり
その血を入口の柱と鴨井(かもい)に塗ると言うものです
これによりエジプト中が悲劇に見舞われる中でも
言いつけ通りに子羊の血を塗った家の前を
神様は”過ぎ越し”て行きました

この事件をきっかけに
パロ王はイスラエルの出エジプトを認め
ここでイスラエルが1つの国として独立を果たしていく事になります
このエジプトを発つ時をユダヤ歴では新年として定め
”過越し祭を行う様に”と神様からの指示が為されました

この後に過越し祭は
ユダヤ教徒の間で重要な祭りとして守られて行き
3000年以上の時が過ぎた現在でも毎年行われています
現地でどの様な形で過越し祭が行われているのかを動画サイト観ましたが
一家の長を中心に一族が集まり
そこで料理が卓上に並べられます
その料理には日本で言う所の「おせち料理」の様に
1つ1つの食材に何らかの意味があり
一番印象に強かったのはパセリでした
パセリはかつてイスラエルの民がエジプトで
かもいや柱に小羊の血を塗ったヒソプを模しているとされ
これらについて一族がお互いに意味を確認し合い
過ぎ越し祭の意味や
自分達の祖先が辿った歴史について
語り合いながら時間を掛けて食事を進めていました

一方、私たち新約の時代に生きる者としては
この過越し祭と言うのは
かつてあった古いお祭りになります
しかし全くの無関係という訳ではなく
今から約2000年前の過越し祭に行われたのが
「最期の晩餐」でした
そこではイエス様が
”我が記念としてこれを行え”と聖餐式が示され
イエス様の死と復活をそこで再確認する儀式として
過越し祭に置き換わっています

かつて過越し祭では
子羊が血を流し
その血によって神の裁きを免れ救いに預かった歴史を
毎年記念として振り返りました
私たち新約の時代においては
この子羊がイエス様であり
また聖餐式において
イエス様の肉体の象徴であるパンが割かれ
血の象徴であるグレープジュースに預かり
そしてそれらを飲み食いし体に受ける事で
イエス様がよみがえり
聖霊として1人1人の中に在る事を再確認するのです

民数記に戻ると・・・
過ぎ越しの祭りが示されましたが
この祭りに参加出来ない人がいます
それは汚れておりイスラエルの野営地の外に出されている人
そして遠方で出かけており帰って来られない人です
以前”汚れた人の清め方”と言うお話をしましたが
レビ記15章にある通り
汚れ方によって清められるまでの期間が異なるので
場合によっては7日間を待ち
8日目に燔祭を捧げると言う手順を踏む為
過ぎ越しの祭りに間に合わない人がいました
そこでこれらの人はモーセに対して
「過ぎ越しの祭りに参加出来なかったが、どうしたらよいか」と尋ねます
モーセは即答せず神様からの示しを待ちました

すると神様はモーセに対して
「今回過ぎ越しの祭りに参加出来なかった者は
来月の14日に再び行いなさい」と告げます
「じゃあそこも参加出来なかった人は?」と言う疑問もありますが
それについて聖書には何も書かれていません
ただ参加できるのにしなかった人は
イスラエルの内から取り除かれて行くと書かれています