勝手に神の愛を期待して
  自分勝手なふるまいをすれば
  それは人間の一方的な思いなので
  神のご計画からは外れて行くことになる
  結局神の愛に甘えると言うのは
  神を都合よく利用しようとする心に他ならない

今日は「民数記略」をお休みして
『信仰と科学の交差点』と言う話をします

”7月5日に地震が来る”
と言った話がありましたが
今月中と言う事で
その折り返しの時期だなと思う訳です

元々この預言(?)は
「私が見た未来」と言う漫画がベースの話であり
この漫画の作者がずっと昔に
夢で見た内容をメモしており
それを1999年に漫画化したものになります
1999年と言えば世紀末であり
ノストラダムスを始めとした
オカルトブームの時代でもありました
テレビでも特命リサーチ200X年と言う番組で
UFOUMAと言った未知の存在を特集して見たり
アンビリバボー等で心霊系の内容を取り扱うなど
私は当時小学校高学年でしたが
興味深く見ていた覚えがあります
ですからこの「私が見た未来」も
このオカルトブームに乗じて発売された本の1つですが
この本の中でメモをパラパラめくるシーンがあり
その内の1枚に
「大災害は20113月」と書かれていた事から
東日本大震災を当てたとされています
またコロナウイルスの事も書いてあったとの事で
そう言った複数の予言的中とされる記載が確認された事から
世間の取り扱いが
オカルト本から予言書に昇格したわけです

私としては特に信じてもいませんし
そもそも東日本大震災を当てたと言っても
日付は書いていません
また「大災害」と一括りな書き方ですから
おおよそ何でもそこに含める事が出来てしまいます
なので「確証バイアス」によって
自分の信じたい情報だけを得る状態になっていたり
また「後知恵バイアス」によって
分かってて書いてある様に感じたと言うのが
実際の所だと思います

ただネット上を中心に
この本の記載やその是非について語られる時に
「非科学的」とされるのが気になるんですね
否定する時に
「非科学的だから」と言う人が多くいますが
科学から見た時に
本来はこの手の予言については
「在るとも無いとも言えない」としか言えないのです

この世の成り立ちや現象について
客観的な手法によって証明する事を科学と呼びます
つまり
「これが原因だと思う」「こうなっていると思う」と言う
漠然としたイメージではなく
なぜそうなるのかと言うメカニズムと
それを実証する実験・観測データを添えて
客観的な正しさを確保するのが科学です
ですからオカルトと呼ばれる領域では
この客観的な正しさを証明する手法がありません
予言もそうですし
死後の世界や心霊現象
様々なオカルトがありますが
それらは全て科学では取り扱えない領域の存在です
従って「非科学的」と言うのは
「科学では取り扱えない」と言う意味であり
科学が「存在しない事を証明した」と言う訳ではありません

科学が絶対視される世の中にあると
どうしても科学が通用しない世界は
正しくない物とされがちです
しかし科学が通用しない世界は
「科学では分からない」と言うのが答えであり
じゃあその
科学が通用しない世界の正しさはどうやって確保するのかと言えば
「信じるかどうか」と言うその1点に尽きます
予言、死後の世界、心霊現象
全て信じる人には存在し
信じない人には存在しません
ですが信じない人がどれだけ「存在しない」と言った所で
それは信じる人に対する否定にもなりません
否定する方法は無いからです

聖書も同じです
この本を信じるクリスチャンにとっては
神の言葉が書かれた本ですが
信じない人から見れば
オムニバス形式で書かれた長ったらしく
良く分からない本です

ヨハネ伝の中でイエス様が弟子のトマスに
「信じない者ではなく、信じる者となれ」
と言うのは正にこの事であり
聖書を聖書足らしめる方法は
個人の信仰に由る物でしかなく
誰も客観的な事実として
聖書が正しい事を証明してくれはしません

ただ時代が大きく変わりつつある中で
多くの先進国では
キリスト教の信仰者は減少傾向が続いています
アメリカでは過去10年間で約1割減少していますし
欧州では人口の2/3が無宗教と回答する様に
宗教離れが起きているとされています
日本でも無宗教と回答する割合が高いのですが
じゃあ無宗教と回答する人が真に無宗教か
と言われるとそうでも無いと思うんですよね
それは長い歴史の中で
宗教が文化として各国に根付いている部分もありますが
それ以上に「科学」と言う新興宗教に
多くの人が流れている様に感じます
先に述べた通り
何かを否定する理由として
「科学で証明できないから」を挙げていると言う事は
科学が絶対的な物として
その人の中で基準であり、より所となっている訳です
一種の比喩的表現ではありますけどね

結局、科学が正しいと言う考え方が
根付いている現代社会において
この聖書と科学の付き合い方と言うのは
様々な考え方を生み
またそれによって教理の違いも生んできました

例えば今読み進めているモーセ五書についても
かつてはモーセが1人で書いた物とされてきました
ところが聖書の研究を進める中で
創世記から申命記までのモーセ五書は
それぞれ別の人物が書いた文章だったのではないか
と言う研究結果が主流です
つまり誰かは分かりませんが
バラバラに書いた文章をつなぎ合わせて編纂し
その上で
5つの書簡としてまとめ上げたのではないかと言う事です
文章の書き方の癖や内容の重複
または矛盾を中心に分析をすると
複数人の著者が浮かび上がるとのことです

この聖書を伝統的な読み方に基づき
書いてある通りを信じるのが保守派
一方で科学的な物と融合させて
現代的な解釈をしようとするのがリベラル派です
今アメリカで力を持っているのが
保守であるプロテスタントの福音派であり
彼らは聖書の権威性を重視し
その内容を文字通りに受け入れる事を重視します
創世記に描かれる宇宙創成の物語
アダムとエバによる人類の始まり
ノアの箱舟による人類の再スタート
バベルの塔による人類の分散
そう言った物語を歴史的事実として扱います
また旧約聖書で
神の民、選民とされるイスラエルを重視し
約束の地にイスラエルがある事を大切にするので
今世界中がどれだけイスラエルの軍事行動を批判しても
アメリカが絶対にイスラエルの側に立ち続ける理由がここにあります

一方で聖書を科学的な立場から読み解き
現代的な解釈をしようとするのがリベラル派であり
自由主義神学と呼ばれるものです
宇宙物理学が描く宇宙創成の物語と
創世記の冒頭で描かれる創世の物語をすり合わせたり
考古学に基づき
ノアの箱舟やバベルの塔を調査したり
それら人間が理性で説明出来ない箇所を
歴史的事実と言うより
神に従う事の重要性を説く
教訓や象徴では無いかと考えます
つまり日本むかし話の様に
個人の倫理観を養う為
信仰観を養うための作り話であると言う事です
ですから科学が前提となっている現代社会に対して
宗教を両立させ
現代人が受け入れやすい形に変えて行こうとするのが
リベラル派となります
なので福音派とリベラル派は
絶対に相容れない訳ですね

では、なぜこの様に
考え方が大きく分かれて行くのかと言えば
その1つの要因に
「神様の愛と神聖さの区別」
と言う問題があるからです
つまりイエス様は愛の御方であり
愛を持って信仰に励む様に
聖書を通じて語っておられます
ですがそれを読む私達が
神様の愛に甘えてしまう部分がある訳です

例えば今読み進めている旧約聖書において
神様はイスラエルの民と常に共にあります
そして神様はイスラエルの民を愛し
その為に様々な業を行い守り、導き続けています
しかしその一方で
無断で至聖所に入る、契約の箱に触れる
そう言った超えてはならない「神の領域」に触れる時
愛し守り続けるイスラエルの民であっても
容赦なく殺されて行きます
それは
愛の神様だからとて
何でも許される訳ではない
神様の領域つまり神聖さは
神を神足らしめる要素であり
人間が超えてはならない一線として
守られているからです

従って人間が真に聖書を理解しようとする時
その理性の範囲で考えると
リベラルな神学の様に
「事実ではなく教訓を伝える例え話」
と言う解釈が必要になって来ます
そしてこのリベラルな神学は
一部で行き過ぎる動きを見せており
中にはイエス様の存在や十字架上での死
そして復活さえも創作である
と言う主張を生んでいます
これらは神様の清きと言う部分を完全に無視しており
人間が自分の理解できる範囲に合わせて
聖書を読んでいるに過ぎません
こうなると最早
キリスト教とも呼べない状態になります

しかし神様は完全な存在であり
その完全さを守る為に神聖さが保たれているのだ
と言う部分を理解する時に
人間は自分の頭で理解できないものを
神様の領域として受け入れて行かなければならない
と言う事が分かって来る訳です
例えば「セカンドチャンス論」と言う物があります
これは自由主義神学で産まれた概念ですが
生前に救いに預かる事が出来なかった人は
死後にもう一度救われるチャンスが与えられる
と言う内容です
これは
”愛の神様であるなら
人間を無下に扱うはずはない”と言う
人間の勝手な思いからでた考えであり
また神様の愛に勝手に期待している典型例です

確かに救いを拒否する人だけでなく
救いに預かるチャンスが無かった人が
どうなるのかと言われたら
人の感情としては
どこかにチャンスがあっても良いのでは
と考えてしまう部分は理解します
ですがそれは
聖書に書かれていない神様の領域であり
神様の愛と混同してはいけない話な訳です

ですから私達も神様の愛を感じる時
それは感謝して受け取らなければなりません
しかし勝手に神様の愛を期待して
奔放(自分勝手)なふるまいをすれば
それは人間の一方的な思いであって
神様のご計画からは外れて行きます
結局神様の愛に甘えると言うのは
神様を都合よく利用しようとする心に他なりません

神のご計画と言うのは
後になって分かるのですから
人が先回りして考えても仕方が無いのです
考える事の多い時代だからこそ
未来は神様にゆだねて
今やらなければならない事に集中する
それが信仰の歩みであると感じます