結果はゆだねるもの
  神にお任せした結果は
  必ず自分にとって最適なものになる
  そんな信頼を神に対して持てる心のあり方を
  ”信仰”と呼ぶ

民数記略第11章より

前回第10章で
永らく滞在したシナイの荒野を
ついに旅立ったイスラエルの民ですが
ここから11章では
食べるものに対する不満
12章ではモーセに対する不満
13章ではカナンの地の状況に対する不満
14章では神様に対する不満と
イスラエルの民が次々に不満を漏らしていきます

その不満はやがて神様の怒りに触れ
この出エジプトの第1世代が
カナンの地へ入ることを許されなくなる原因となっていく訳ですが
今日は最初の不満である第11章から初めて行きます

11章の冒頭
具体的な内容は分かりませんが
民は激しく不満をもらし
その不満は神様の耳に届き
これにより神様の怒りが発せられ
野営している陣の外側が焼かれたとあります

この火にあせった民は
モーセに何とかして欲しいと懇願し
モーセが神様に祈る時にこの火は収まりました

この不満が何だったのか
そして何故外側が焼かれたのか
それは出エジプトの場面を読み返すと見えてきます

出エジプト記1238節には
「衆多くの寄集人」がイスラエルの民と共に
出エジプトを果たした事が記されています
この寄集人と言うのは
雑多な民族の集まりと言うことであり
様々な民族が考えられます

イスラエルの神に共鳴した異邦人
エジプトで同じ様に奴隷の立場に置かれていた遊牧民
イスラエルの民が奴隷として使役していた民族
そう言った雑多な民族も出エジプトに預かったわけで
これらの内でどれくらいかは分かりませんが
イスラエルと行動を共にした人達がいた事が分かります

ではこれらの人々は
野営する際にどこにいたのか?
イスラエルの野営地における陣の置き方は
中心に幕屋をすえ
その周囲の東西南北の指定された位置に
イスラエル12部族が野営する事と定められています
従って野営地の中心は
イスラエルの民で占められており
この雑多な寄集人は
野営地の外縁部で野営していたと考えられます

つまり寄集人と言うのは非イスラエルであり
信仰も文化も異なる異民族になります
従ってカナンの地を目指すモチベーションにも差がありますし
当然ながらそもそも信仰観が異なれば
不満の火種になり得る存在でもありました
4節を見ると、寄集人が火種となって
イスラエルの民が不満を口にしていることが分かります
なので神様は
このイスラエルの民に対して怒りを向けたというよりも
不満の火種をバラまいた寄集人に対する神の怒りが
現れた形となりました

次にイスラエルの民が口にした不満は
食事に対する不満でした
かつて自分たちがエジプトで奴隷であった頃
魚やキュウリ・スイカと言った水分の多い食物
そしてニラやタマネギ・ニンニクと言った香りの強い食材
そう言った物を好きなだけ食べることが出来た
ところが今はマナしか手に入らず
元気が出ないとつぶやきます
そして何よりも
こう言った不満や要望のはけ口はモーセでした
イスラエルの民にとってモーセは神に等しい存在であり
アロンを通じて預言を与える存在です
従ってモーセに対して数百万人のイスラエルは期待し
要求し、プレッシャーを与えました
一方で神様は
このイスラエルの不満を聞いて怒りを発します
モーセはこの神様の怒りも分かっていますので
完全に板ばさみの中間管理職状態で
行き詰ってしまいました

ここに来てモーセは神様に対して
正直に不満をぶちまけました
なぜ自分の子孫でもないイスラエルの民を
自分の子供の様に
面倒を見なければならないのですか
なぜ自分は役割に対する恵みを受け取ることなく
ただ重荷として
この民を背負わなければならいのですか
肉を食べさせろと言われても
数百万人に食べさせる肉を
どこで調達すれば良いのですか
私があなたから恵みを得ているのだとすれば
苦しまない様にいっそのこと殺して下さい、、、

ただのイスラエルの民が
こんな事を言ったら裁かれそうですが
モーセと神様の間には
一定の信頼関係があるからこそ
モーセの訴えは不満ではなく
正直な告白として受け取られました

このモーセの様子を見た神様は
モーセに対して譲歩します
イスラエルの長老の中から70人を選抜し
神様がモーセに授けた力の一部を彼らに分け与え
イスラエルを管理する重荷を
モーセから軽くしてやろうとしました

また神様は
モーセを通じてイスラエルの民に告げます
イスラエルは主の耳に達するほど泣き言をもらし
エジプトでは幸せだったと過去を美化し
常に主と共にあり、主の面前でありながら
エジプトを出た事を後悔した
これにより主はイスラエルに対して肉をお与えになる
ただしそれは1日や2日ではない
1ヵ月の間毎日肉が与えられ
最後には吐き気をもよおすことになる

これは「望んだ物を過剰に与える」と言う
神様による皮肉な裁きの1つです
日本でも「過ぎたるは及ばざるが如し」と言う通り
ほどほどを超えて過剰に与えられると
苦痛に変わると言うものです

エジプトから救い出された感謝を忘れ
むしろそれが間違いだったと言わんばかりに
泣き言を漏らしたイスラエルに対する罰でした

実際この後に神様が風を起こし
野営地に膨大な数のうずらを落としました
イスラエルの民はこのうずらを集めて食べる訳ですが
一日中
中には翌日に渡ってうずらを集め続ける人が現れます
少なくとも10ホメル集めたとありますが
ホメルと言うのは体積の単位です
1ホメルが220リットルで換算され
10ホメルのうずらとは
数千羽を集めたと言う事になります
この膨大なうずらを集めた人は
神様の裁きを受け疫病にかかり死にました
これは自らの欲望に支配され
神様に対する信仰や信頼が薄い者を取り除いたのです

かつて出エジプト記でマナが与えられた時
神様がイスラエルに申し付けた掟は
「その日に必要な分だけを確保する」でした
これは神様がイスラエルと共にあり
翌日もまた必ず与えられると言う
希望と信仰をもたらしましたが
今回うずらを必死に集めた人と言うのは
この神様を信じることが出来ず
自らの思いに突き動かされてうずらを集めました
神の恵みではなく、肉の欲望が勝った
それが神様から見た時に罪とされ
裁きを招くことになったのです

さて、ここで1つの疑問が生じます
イスラエルの民は
自らの思いや願いを神に訴えた結果
過剰に与える罰を受け裁きを招いた
しかし一方でピリピ書46節では
「汝らの求めを神に告げよ」と書かれています
一方は告げなさい
もう一方は告げた結果裁きを招く
この違いをどう考えるべきなのか??
この民数記とピリピ書の御言葉を比較すると
3つのポイントが見えてきます

@願いの前提が何に基づいているのか

民数記略では
不満、欲望、過去への執着に基づく願いと要望でした
神様が与えたマナを軽んじ
エジプトを懐かしむ姿勢が
神様のご計画を否定する態度でもありました

一方でピリピ書では
「感謝をもって願いを告げよ」と書かれています
つまり神様のご計画がありつつ
それを肯定し信頼した上で
今の気持ちを告げていく
その神様に対する姿勢の違いがあります

A願いの告げ方が謙遜か反抗か

民数記略では
願いの告げ方がつぶやいたり
モーセを責めたりと
神様に反抗する様な姿勢でした

一方でピリピ書では
「祈りをなし、願いをなし、感謝して」
と言う告げ方が示されています
つまり自分を高きに置かず
神様に対して常に
謙遜した状態をよしとしています

B結果を委ねるか強要するか

恐らくここが最も重要なポイントで
イスラエルの民は結果を強要しました
自らの求めを告げ
その上で自らが望む結果を神様に強いた
しかしその願いに対する応答は強烈であり
過剰に与えると言う裁きと言う形で表れてしまった

一方でピリピ書では
「神の平安が汝らの心をキリスト・イエスによって守る」
と書いてある通り
願いと結果は切り分け
結果については神様に委ねると言う形が示されている

誰しも生きる中での困難があり、不安があり
そう言った重荷を下す為に
祈りを為して願いを告げます
ですがそれは
神様への信頼と謙遜をベースに願うものであり
決して自分の求める結果を
期待するものではありません
結果はゆだねるもの
神様にお任せした結果は
必ず自分にとって最適なものになる
そんな信頼を神様に対して持てる心の在り方を
信仰と呼ぶ訳です