民数記略のこの章では
  モーセがいかに特異な存在であったかが分かる
  特に重要なのは
  モーセが地上の誰よりも謙遜であったと言う事
  神にこれだけ近づく事を許され
  神の言葉を語ることを許されながら
  モーセはあくまでも謙遜であった

民数記略第12章より

前回の冒頭
この民数記略1114章は
イスラエルの民が神様に反抗する様子を
描いているとお話ししました
その中で今回12章は
イスラエルを率いるモーセ、アロン、ミリアムの兄弟間で
もめ事が起きるお話になります

イスラエル一行は
キブロテハッタワと言う場所を出発し
ハゼロテに進みました
これはどちらもシナイ山の麓を回り込んだ
山の向こう側になります
まだイスラエルは
シナイ山からそう離れてはいません

ここでモーセの兄アロンと姉ミリアムは
モーセを責めていました
それはモーセが
エチオピア人の女性と結婚したからです
この女性が誰であるのか
それは明確には分かっていません
文語訳聖書では「エテオピアの女」とありますが
新共同訳聖書では「クシュの女」と書かれています
このクシュ人と言うのは
創世記10章に出てくるノアの3人の息子セム・ハム・ヤペテから
ハムの息子クシュに始まる一族の事です
このハムの息子クシュが
エチオピア人のルーツになっていた事から
ハム=黒人種の祖先と言う解釈が生まれた訳です

そしてこのモーセが結婚した
エチオピアの女と言うのが明記されていないので
これがチッポラの事であるのか
それともチッポラとは別の側室であるのか
もしくはチッポラが亡くなった後妻であるのか
色々な学説がありハッキリはしていません
ただ何にせよ異邦人を妻に迎えた事を
アロンとミリアムは非難したのでした
しかしこの誹(そし)りに対してモーセは
反論する訳でもなく柔和に対応しました

このアロンとミリアムの非難は心からの物ではなく
その裏にある真意を隠して
モーセに当たっているだけでした
つまり2節に
「モーセが神様からの預言を語るのだから
自分達も同じ事が出来るはずだ」と言っている通り
その真意とはモーセに対する嫉妬心です
しかし心を見給う神様ですから
このアロンとミリアムの言葉は見透かされ
モーセも含めて3人は
幕屋の前に呼び出されました
そしてアロンとミリアムは
神様の前に進み出る様に申し伝えられます

ここで神様はアロンとミリアムに対して告げます
「預言者に対して主である私は
幻の中で姿を示し
夢を通じて語りかける
しかしモーセとは口と口をもって語り合い
モーセは主の姿を仰ぎ見る程に
親密な関係にある
そのモーセをなぜあなた達はねたみ責めるのか」

当時は神様の姿を見てはならない為
預言者と言えども
神様が姿を見せて語りかけるのは
夢や幻の中でした
しかしモーセは神様に近づく事を許されており
直接会話によって語り合い
ある程度は神様の形を見る事も許されていました

これ程まで神様から寵愛され
用いられたモーセに対して嫉妬し
八つ当たりの様な非難をしたアロンとミリアムには
神様から裁きが与えられます
ミリアムは皮膚病で肌が真っ白になり
その様子を見たアロンは慌ててモーセに
神様との執(と)り成しを願い出ます
モーセは姉ミリアムのために神様に祈り
神様はミリアムを皮膚病の故に
レビ記の規定に則り
7日間は野営地の外に置かれました

民数記略のこの章では
モーセがいかに特異な存在であったかが分かります
特に重要なのは
モーセが地上の誰よりも謙遜であったと言う事でした
神様にこれだけ近づく事を許され
神の言葉を語ることを許され
一般的に考えると
下手をすれば傲慢になっても不思議ではありません
しかしモーセはあくまでも謙遜でした
なぜここまでモーセが謙遜を貫き
そして神様から愛される存在であったのか
それはヘブル書3章を見ると分かります

「モーセが
 神の家全体の中で忠実であったように
 イエスは
 ご自身を立てた方に忠実であられました
 家を建てる人が
 家そのものよりも尊ばれるように
 イエスはモーセより大きな栄光を
 受けるにふさわしい者とされました」
 (ヘブル人への手紙3章2‐3節)

モーセは神の家に忠実でした。
この旧約聖書における”神の家”は
神様が選んだ民イスラエルの事です
モーセはこのイスラエルを導き
神様の言葉を伝える忠実な僕でした

一方でイエス様は
”神の家を治める存在として置かれます
なぜ神の家を治めるのかと言えば
この神の家を創造した存在でもあるからです

この新約聖書における神の家とは
信仰の共同体
つまり”救いに預かった者達”を指します
つまりヘブル書3章5節を通じて
モーセとはイエス様のひな形である事が示され
謙遜の完成形であるイエス様を模しているからこそ
モーセは地上の誰よりも
謙遜であったことが分かります
ただし人間であるモーセは
「地上の誰よりも」謙遜ですが
天にいるイエス様には及ばないと言うのがミソです

さて、神様の形を見る事を許されたモーセですが
出エジプト記をふり返ると
そこでは神様の後姿を見ています
顔は見る事を許されませんでしたが
岩の裂け目を通り過ぎた後の姿は
見る事を許されました

旧約の時代は
アダムとエバからの原罪だけでなく
律法も完全に守れない人間には誰しも罪があり
その罪が神様の完全な聖の前には
存在してはならない物でした
だからこそ神様は幕屋を作らせ
至聖所と言う完全に区切らせた聖域でもって
人間と対峙しました
それも人間を守る為の
1つの愛の形であったと言えます

新約の時代において
イエス様の血の贖いにより救われた人間からは
罪が取り除かれます
これにより聖霊として神様が
私たちと共にある事が出来る様になった訳ですが
救われた私たちには
何の罪もないかと言うとそうではない
救われた者は新たに
”肉の思いと言う罪”と闘わなければならないのでした