|
|
*前置きの話はこちら→「10月25日」
申命記 第4章41節より
モーセはヨルダン川東岸に
3つの町を起こしました
これは殺人の罪を負った者が
逃げ込むための「逃れの町」
ただしそれは
憎んで殺したのではなく
事故などによって
結果的に殺してしまった
つまり過失犯の場合に限ります
これはルベン、ガド、マナセの各領地に
それぞれ1カ所ずつ設けられました
以前、この「逃(のが)れの町」について
民数記第35章で触れています
逃れの町に逃げ込んだ者は
庇護(ひご)を受ける代わりに
元の町へ勝手に戻ることが
許されませんでした
戻れるのは何年か何十年か先
当代の大祭司が死んで
代変わりをするタイミングのみです
これは意図的に殺した訳ではないので
やり直す機会が与えられたのです
この制度の目的を考えると
加害者について
過失(わざとではない)とは言え
被害者遺族が居ますから
感情的な報復の連鎖で
社会が混乱する可能性があります
そんな中では公平な裁判を起こすことも
出来なくなるので
そこで社会的な秩序を保つために
加害者を隔離しました
これが逃れの町の原則となります
前回この民数記で
逃れの町についてお話しした時は
「被害者遺族の感情」について
着目しました
加害者は逃れの町で守られる
社会は秩序を取り戻す
しかし制度が最終的に
被害者遺族を救っていない様に見える
しかしよくよく見て行けば
喪失の悲しみ
加害者に対する怒りと憎しみ
それらを無理に封殺するのではなく
一方で
これらの人間らしい負の感情に振り回されて
人生が破綻しない様に
喪失と向き合う時間として
大祭司の代替わりに掛かる時間が
設けられたのだと言うお話をしています
そして今回は別の角度から
この逃れの町についてアプローチします
それは「社会の感情について」です
情報化社会になり
世界中のニュースが
多く届く時代となりました
ネットを開けば
毎日国内でも
数多くの事件や事故が起きている
そしてそんなニュースの報道には
様々な怨嗟(えんさ)のコメントが付き
「加害者は何を考えているのか」
「何でこんなことが出来るんだ」
「考えれば分かっていたことだ」と
呪いの言葉で埋め尽くされています
しかしこれらのコメントをしている人は
この事件事故の関係者なのでしょうか?
恐らく99%以上は無関係な人でしょう
このニュースを見るまで
存在すら知らなかった被害者に同情し
そして加害者に対して批判を集中させる
それはまるで
「存在すること自体が悪」とでも言わんばかりに
加害者を否定します
それでもたまに
「加害者にもこうなった理由・背景があったはずだ」
と言うコメントが現れます
しかしそこには
「犯罪を正当化するのか」と言う
別の批判が殺到する
もちろん最終的には
裁判で事実関係が整理されます
加害者の過失がどの程度あったのか
被害者の過失はどの程度だったのか
加害者はどの様な背景で
この事件事故に至ったのか
そう言った背景を全て整理した上で
量刑が決まります
ところがニュースに殺到するコメントは
こう言った背景を
全く考慮などしていません
全く知らない他人に対して
結果だけを見て批判している状態です
これは「前置きの話 10月25日」に記した
ソクラテスが戒めた状態そのものです
自分は知らないにもかかわらず
知っていると思い込み
そこで思考を止めてしまう
「無知の知」とは
その逆に
「私はまだ知らないのではないか」と
問い続ける姿勢だったはずです
社会は誰かを一方的に評価する
レッテルを貼る
そして貼ったレッテルを前提に相手を見る
いつの間にか
「相手を知っている、理解している」と
思考停止する
そうならない様に冷静に双方の背景を探る
「自分は加害者の事も被害者の事も知らない」
と言う事を前提にすれば
一方的に責め立てるのではなく
もっと背景を探ろうとする姿勢になるはずです
ヨハネ8章1節に
有名なお話が出て来ます
イエス様の前に
姦通(かんつう)の罪で捕まった女が
引き出されてきました
そしてパリサイ人はイエス様に問います
「”姦通の罪は石打の刑に処す”と
モーセの律法にあるが、どうするのか」と
そこでイエス様はただ一言述べました
「汝らの中、罪なき者、まず石をなげうて」と
律法に石打の刑とある以上は
それを否定する事も無い
ただ処罰する側に対して
「他人を裁けるほど
お前たちは清廉潔白なのか?」
と問うたのです
結果的に石を投げる者は現れませんでした
イエス様が言葉を投げる前に
集まっていた群衆は
自分たちが正義を実行する側だと
考えていたはずです
目の前には律法に反した人間がいる
自分たちは今からこの犯罪者を裁く
それだけを考えていました
ところがイエス様から
「ところでお前たちは犯罪者じゃないのか」
と問われると
急に目の前の女と自分との区別が
付かなくなるんですね
自分も罪に心当たりがある
なのに同じ罪人を自分は裁こうとしている
すると正義でふくらんでいた処罰感情は
いつの間にか
同情と反省に変わってしぼんでいく
ですから私たちは
すぐに人を知った気になり
裁いた気になります
しかし神様は逃れの町を設け
またイエス様は
『罪のない者がまず石を投げよ』
と言われました
イエス様は私たちに
まず立ち止まりなさいと言っています
自分は何を知り
何を知らないのかを問い直しなさい
と語っておられます
その時初めて
裁きは憐れみに変わり
隣人を隣人として見ることができるのです
そして隣人を
隣人として見る事が出来る時
そこには隣人愛が働きます
即ち「無知の知」とは
隣人愛の構造の一側面と言えるのです