十分の一を捧げる規定は
 旧約の律法として与えられたもので
 新約の時代となった現代では
 愛によって成就(達成)している
 すなわち
 教会への献金は
 強要されてするものではなく
 キリストの福音が世の中に伝わることを願う心
 神への愛と感謝に基づいて
 各々が自由にするものである


民数記略第18章

民数記18章は
祭司の務めに関する掟(おきて)と
その説明がまとめられています
つまり、祭司としての務めを担(にな)う
アロンとその一族
そして祭司を補助するレビ族について
その役割と責任の範囲が
改めて整理・定義されているわけです

神様はアロンに対して次のように命じました

レビ族は
幕屋に関する罪責を負わなければならず
アロンとその子孫は
祭司職に関する罪責を負う
またアロンの一族以外のレビ族は
幕屋での奉仕を補助するが
祭壇や至聖所の幕の奥に関わる務めは
すべてアロンの一族が担う

ここで重要なのは
単なる役割分担ではなく
それぞれが「罪責」を負うと
定められている点です
つまりアロンとその一族は
祭司としての務めに対する責任だけでなく
祭司という立場が侵された場合の罪も
背負うということです
従って、アロンの一族以外の者が
祭司の務めを行えば
その罪はアロンが負うことになります
他のレビ族についても同様です
「なぜ?」と思うかもしれませんが
これは役割と同時に
”神が定めた聖なる秩序を守る責任”が
課せられているからです
ここで言う秩序とは
人間社会の秩序ではなく
”神の聖なる秩序”のことです

この流れは新約時代において
”最後の大祭司”として現れた
イエス様へとつながります
イエス様は
神の秩序において定められた大祭司であり
その秩序を守り役割を全うするために
大祭司の務めを破った人類の罪を
背負われたのです


****<補足>****
ヘブル書7章が示すように
旧約の律法では大祭司はレビ族
しかもアロンの家系に限られていました
そのためユダ族の出であるイエス様には
本来資格がありません
しかし祭司職の根拠を
律法だけに求めるなら
この問題は解決しません
そこで聖書は
”律法以前に存在した神の秩序”に
目を向けさせます
それが創世記
14章に
一度だけ登場するメルキゼデクです
彼は「いと高き神の祭司」として
アブラムから十分の一を受け取っており
この行為は
彼がアブラハムよりも高い位置にある祭司
であることを示しています
つまりメルキゼデクの祭司職は
レビ族の制度より先にあり
”神の直接の選び”によって
立てられたものでした
ヘブル書は
イエス様こそ
このメルキゼデクの系譜に属する祭司であり
律法の規定ではなく
神の主権的な選びによって
永遠の大祭司とされたのだと語っています

*************

さらに神様は
アロンにもう一つ告げています

レビ族は土地を持ってはならない

イスラエルの各部族には
嗣業(しぎょう)の地が与えられるが
レビ族には割り当てがない
なぜなら
「私(神)こそが
レビ族に与えられる嗣業だからである」

つまり約束の地カナンに入った際
イスラエルの各部族は
それぞれ土地を割り当てられますが
レビ族は定住を禁じられ
特定の土地に結びつくことを許されませんでした
その代わりに
レビ族が受け取る嗣業は神ご自身であり
イスラエルの信仰の中心を担う者として
神への信仰を世代を超えて継承することが
レビ族の嗣業と定められたのです
従って
土地という経済基盤を持つ他部族とは異なり
レビ族は神に依存する生き方を
体現する象徴として置かれました

そのため
レビ族の生活基盤を支える仕組みとして
イスラエルは十分の一をレビ族に捧げることが
掟として定められます
レビ族は受け取った十分の一から
さらにその十分の一を祭司に捧げました
レビ族もイスラエルの一部であり
捧げる掟が適用されるためです

この「神が嗣業」という考え方は
後にバビロン捕囚の中で
レビ族以外にも広がっていきます
捕囚前後に書かれた
エレミヤ書やエゼキエル書には
この思想が
イスラエル全体に広がっていく様子が見られます
土地を失い
神殿という神の臨在の中心を失った民が
新たな拠(よ)り所として
土地ではなく
”神に依存する生き方”へと
導かれた結果でした

少し話がそれますが
バビロン捕囚によってイスラエルの民は
土地・神殿・祭儀という
目に見える信仰の対象を失い
目に見えないものを信じるという
信仰の第二ステージへ入ります
捕囚は悲劇でしたが
旧約時代の終わりが近づき
メシアを迎えて
新約の扉が開かれるための
準備期間として与えられた試練でもありました

さて
この十分の一を捧げる規定は
旧約の律法として与えられたものですから
新約の時代となった現代では
愛によって成就しています
新約における捧げ物は
「惜しむことなく
強いてすることなく
各々が心に決めた通りにしなさい
(コリント後書
9:7)」
とあり
旧約時代のように
「いくらしなければならない」
という決まりもなく
「いくらすれば祝福がある」という
ご利益的な考えでもありません
それぞれが心に感じる
イエス様への感謝に応じて行うべきだ
とパウロは説いています

ただ日本人は不思議なもので
誰かに贈るお金に基準を求めがちです
ご祝儀はいくら、香典はいくら
立場や関係性によって相場があり
それを調べて
「基準が〇〇円だからその通りに」と
考えることに慣れています

そのため教会の献金にも
相場を知りたがる傾向があります
もし旧約の掟に照らせば十分の一ですが
これは各個人とイエス様との間で
心のままに定められるものであり
教会は仲介者としてそれを受け取り
運営費として用いることが
聖書に認められています

ただし
心から捧げられた献金を受け取る教会には
それを正しく用いる義務が伴います
透明性と誠実さが求められ
(使徒行伝
5章)
福音を述べ伝えるために用いること
(コリント前書
9章)
用途について
信頼できる複数人による管理を行うこと
(コリント後書
8章)など
細かな注意点が示されています
要するに
イエス様の名が広められ
福音が述べ伝えられるように
用いなければならないということですが

もし社会から
「あの教会は献金を私利私欲に使っている」
と見られれば
福音を述べ伝えるどころではありません
社会的に誠実であること
透明性を持つことは
これからの時代に
ますます重要になるでしょう

献金を捧げることや
その用途に関する新約聖書の記述は
どれも掟ではありません
あくまでも考え方です
その本質は
”イエス様の福音が広がるようにという心”であり
その根源にはイエス様を愛する思い
すなわち主なる神を愛しなさいという
イエス様が示した愛の律法があります
これこそが
”十分の一の捧げ物に関する旧約の律法が
愛によって成就(達成)した”
ということなのです