信仰が弱いから人の弱さが現れる
 信仰が強くなると引き換えに
 人の弱さは消えて行く
 そんな風に思いがちだが
 実際には人が弱さを抱える事と
 信仰の強さは別の問題であり
 人はどれだけ信仰が強くなっても
 常に弱さと隣り合わせの状態にある
 だからこそ人が旧約時代の様に
 ”信仰によって救われる”と言うのは
 ある種の理想であり
 同時に実現不可能なものでもあった


*前置きの話はこちら→「2月8日」

民数記略 第21章より

前回は「メリバの泉」
そしてモーセの姉ミリアムと
兄アロンの死が描かれました
今日21章はいよいよ
カナンの地へ向かって再スタートを果たした
イスラエルの第二世代が
如何にして旅路を進め
そしてその途上で戦いに挑んできたか
と言うお話になります

前回エドムの王様から
エドム領内の通過を拒否されたイスラエルの民は
仕方がないのでエドムの国境に沿って
北上を続けていました
しかしその途中で
アラドと言う町から
カナン人による襲撃を受けます

この時代は基本的に都市国家ですから
アラドは町であり
同時に1つの国でもありました
従って今回の戦いと言うのは
カナン人の総意によるものではなく
あくまでもアラドと言う
1国家の想いだけで始まったものです

この戦いによってイスラエルの民の一部は
捕虜として連れ去られてしまいます
そこでカナン人に対抗するために
イスラエルの民は
自ら神様に誓いを立てました
「アラドの町を我々の手にゆだねて下さるならば
必ずやこの町を滅ぼします」
と誓願を立て
そして神様はその願いを受け入れました
ここでイスラエルの民は
アラドの町を攻め滅ぼします

この戦いはイスラエルの民にとって
恐ろしく久しぶりな勝利でした
イスラエルの民が戦った描写は
出エジプト直後のアマレク人との戦いが
最後だったからです
つまり約40年ぶりの勝利であり
しかもイスラエル第二世代にとっては
これからの旅路に希望を与える一戦でした
何よりもイスラエルの民が
自発的に神様に誓願を立て
そして信仰に基づいて戦いに臨んだことは
信仰的に大きな進歩でもあったのです

ところが
この勝利の余韻(よいん)も長くは続かず
再び荒野を進みながら
カナンの地を目指す旅路に戻ると
再び民の間ではつぶやきが始まります
パンも水もない、マナは美味しくない
エジプトから出なければ良かった
ここまで幾度となく繰り返された不満が
あらわとなりました

そんなイスラエルの民には
やはり神様からの裁きが下る訳ですが
今回は
炎で作られた蛇が送り込まれました
この蛇によって多くの死者が出る事となり
イスラエルの民は慌ててモーセに後悔の念を伝え
執り成しを頼みます
執り成しを図るモーセに対して神様は
「あなたは炎の蛇の像を作り
それを旗竿(はたざお)の先端につるしなさい
蛇にかまれたものがそれを見ると助かる」
と告げます
そこでモーセは
青銅で蛇の像を造らせ
旗竿の先端に掲げます
すると蛇が人をかんでも
この青銅の蛇を見上げる事で
助かる様になりました

さて、この戦いの勝利と言うのは
イスラエル第二世代にとっては
大きな希望でした
それは生まれてこの方ずっと
親世代の不信仰を目の当たりにし
その度に裁きを受け
そして荒野での生活を延々と続ける
そんな第二世代にとって初めて
「神様が自分達と共に在る」
と言う事を経験したのです
自分達が信じれば応答される
その成功体験を積んだ戦いでした

しかし一方で
大きな成功体験は長続きしません
その先に続く
結局は変わらない普段の生活
そしてアロンを失った喪失感
エドムを通れず遠回りを強いられる
そんな想いが先の体験をかすませ
大きな勝利の直後に
再び不満をつぶやく状態に戻ってしまいます

”大きな証が必ずしも信仰に繋がるとは限らない”
と言う教訓だけでなく
”人の信仰が常に弱さと隣り合わせである”と言う
人間のリアルが垣間(かいま)見える場面です

つまり私たちはイメージとして
信仰と人の弱さをトレードオフとして考えがちです
信仰が弱いから人の弱さが現れる
信仰が強くなると引き換えに
人の弱さは消えて行く
そんな風に思いがちですが
実際には人が弱さを抱える事と信仰の強さは
別の問題であると言う事でもあります
人はどれだけ信仰が強くなっても
常に弱さと隣り合わせなのです

だからこそ人が旧約時代の様に
信仰によって救われると言うのは
ある種の理想であり
同時に実現不可能なものでもある訳です

イエス様はニコデモとの会話の中で
ヨハネ伝314節に
この「青銅の蛇」を引用しています
ニコデモに対して”新たに生まれよ”
その方法は”水と霊によるバプテスマである”
そう語った上で
「モーセが荒野で青銅の蛇を掲げた様に
人の子もまた掲げられなければならない
それは信じるものが皆
人の子によって永遠の命を得る為である」
と続けています

かつて蛇を仰ぐことで裁きから救われた様に
私達もまた
十字架に掲げられ天に上ったイエス様の示す道
即ち水と霊のバプテスマによって救われて行く
従って人は信仰のみによって救われるのではなく
イエス様が用意されたバプテスマが
救いを与えるものだ
と分かる訳です