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だからこそ私たちは |
今日はまず
法律の話から入って行こうと思います
日本の法律には
大きく刑法と民法の2つがあります
この中で今日お話しするのは刑法の話です
刑法と言うのは
何をすると罪になるのか
そしてその罪に対してどの様な罰を与えるのか
その基準を国が定めた法律です
特に日本の場合は
この刑法の運用において大きな入口があります
それは「故意」であるか
「過失」であるかと言う点です
意図的にやろうとしたのか
それとも不注意や勘違いでやってしまったのか
それによって結果は同じでも
根本的に取り扱いが変わっていくと言う事です
ですから「人が亡くなる」と言う同じ結果に対しても
殺人罪と過失致死罪では
微妙に扱いが違う訳です
ちなみにこの刑法の中では
「責任能力」が重要であり
その代表例が心神耗弱(しんしんこうじゃく)です
これは様々な理由によって
理性的な判断が出来ない状態の中で行われた犯罪は
その責任を問う事が出来ないと言う決まりです
つまり加害者を罰する前に
治療や教育が優先されると言う事です
この心神耗弱の規定は
「加害者に甘い」と非難を受ける事が多いですが
その歴史を紐解くと中世ヨーロッパ
紀元12世紀頃までさかのぼります
当時は畑を荒らした豚やイノシシを捕まえ
弁護士を付けた上で状況証拠に基づいて
裁判が開かれていました
今考えれば非常に滑稽な様子ですが
当時は真面目に野生動物を訴えていたのです
その中で
「さすがに理性の働かない対象を罪に問うことは出来ない」
という流れになり
この通称「動物裁判」と呼ばれる歴史は18世紀まで続き
その適用は人間にまで広げられる事となりました
民数記 第35章より
ヨルダン川をはさんで
エリコの町の対岸に位置するモアブの平野にて
神様はモーセに対して
「これからイスラエルが受け取る嗣業の地から
その一部をレビ人の為に分け与えなさい」
と命じました
具体的には
イスラエルの12部族が受け取る
それぞれの嗣業の地において
レビ人用の街を建設します
そして街の外壁から半径1km弱を
レビ人用の放牧地として用意し
この町の総数は42カ所と定められました
42は12の倍数ではありませんから
このレビ人用の街については
嗣業の地の大きさに合わせて
数が振り分けられたとあります
またそれとは別に
6つの「逃(のが)れの街」を作りなさいと命じました
これはヨルダン川をはさんで西側に3カ所
東側に3カ所用意され
ここには「誤って人を殺してしまった人間」が
遺族や関係者の復讐から逃れる為に
逃げ込む町とされます
この逃れの街はイスラエルの民だけでなく
異邦人でも使用することが認められました
そして16節からは
量刑判断について定められています
色々と書いてありますが内容を整理すると
「意図的に人を殺した者は死刑に処す」
そして「誤って殺してしまった者は
逃れの街で保護しなければならない」と定められました
この意図的に人を殺した者の処刑は
必ず複数人の証言によって
その罪が立証されなければならないとし
また殺された被害者に対する贖いは
加害者の血で贖(あがな)うしかない
つまり加害者の命と引き換えにして
初めて贖いが成立すると定められました
ただし逃れの街で保護された者は
大祭司の死による恩赦で
元の地へ帰ることが出来るとされました
これは大祭司の死で許されるのではなく
あくまでも1つの区切りとして帰れると言う話です
ちなみに逃れの街で保護された罪人は
大金を積んだとしても
大祭司の死を待たずして帰る事は許されない
と定められています
この逃れの街と言うのは
表面的には加害者を守るための制度です
罪人を社会から切り離して保護し
大祭司の死と言う何十年に一度のタイミングで釈放される
しかしそれは裏を返せば
次の加害者を生まない仕組みでもありました
つまり過失致死と言う
ある意味で可哀そうな加害者に対して
被害者の遺族や関係者が
復讐の為に加害者を殺すならば
これは報復の連鎖によって
次の加害者が生まれてしまいます
そうならない為に加害者を隔離し
大祭司の死を待つクールダウンの期間を置いて
社会へ戻す
従って社会が報復の連鎖に巻き込まれない為に
そして過失によって罪を犯した人間が
再起を図る道が残される為に用意されたのが
逃れの街なのです
ここまで整理してきましたが
この仕組みの中で宙ぶらりんになっている存在があります
そうです、遺族と関係者です
加害者は再起を図るために逃れの街で保護され
社会は報復の連鎖を避けるために
逃れの街で物理的に加害者を排除する
いずれ大祭司の死によって
加害者は釈放され社会に戻りますが
この仕組みの中には
被害者遺族と関係者に対するケアが一切出てきません
よほど身内から嫌われていた人なまだしも
多くの場合で遺族は
身内を殺された怒りや悲しみ、理不尽さ
そう言ったありとあらゆる負の感情を加害者へ抱きます
ですからこの感情のままに行動すると
次の加害者になってしまう訳であり
だからこそ逃れの町で
加害者を物理的に遠ざける事でそうならない様にしています
ですが加害者への復讐が果たせない事が
遺族の感情を慰める事にはつながりません
この制度の中で被害者遺族の感情は
宙ぶらりんになっている訳です
さて聖書はこの遺族の負の感情を
どの様に受け止めているのでしょうか?
それはロマ書12-19でパウロが書いている通り
「主いい給ふ、復讐するは我にあり我これに報いん」と
つまり被害者遺族と関係者の感情は
神様にその取扱いを委(ゆだ)ねなさいと言うことです
自ら急いで報復に走ってはならない
かと言ってただ胸の内にずっと閉じ込めておく必要はない
神様に預け、そして自らの人生に立ち返りなさい
と言うのが聖書のメッセージである訳です
ただし人は弱いのです
「神様が報いて下さるから納得して受け入れなさい」
と外から言われたとて
そう簡単にその様に出来る物ではありません
これは殺人と言う重いテーマを前提に置いていますが
私たちの日常生活でも同じです
社会と関わっていれば
大なり小なり理不尽な思い、言うに言えない思い
様々な負の感情と向き合います
聖書が言っているのは
この「負の感情を抱いてはいけない」
と言うきれいごとではありません
人はそう言った感情を自然と抱くのです
しかしそれに流されてはいけない
感情のままに行動してはならない
内側の感情と外側の行動を切り離しなさいと言うことです
ですから被害者の心の救済というのは
理不尽を理不尽として
正面から向き合った先の”納得”にあります
それはただ
「意味があるのだから納得して我慢しなさい」
と言う押し付けでもありません
理不尽に対して
憎み、呪い、苦しみ、悩み
そう言った人としての負の感情を全て通った先に
「これは必要な過程であったのだ」と
内側から自然と納得が立ち上がってくる
ここに至るまでの間に
身を滅ぼさないようにしなさいと言うことなのです
そしてこの時に初めて私たちは納得して
神様に対し想いを預け
そして自分の人生に立ち返ることが出来るのです
ですから逃れの町における恩赦が
大祭司の死と言う数十年に一度のイベントであるのも
それはこの被害者が
負の感情を通って心を整理し
自分の人生を取り戻すための時間が設けられている
と言える訳です
ただし「神様に委(ゆだ)ねる」と聖書は教えますが
人は悩みをポンと一括して預けられるほど強くはない、、
なので、例えるなら
1万円を1円ずつ神様と言う貯金箱へ入れて行くような感覚で
その過程で何度も悩み悲しみ呪いつつも
それでもちょっとだけ預け
また残りを握りしめて悲しみ
その中からまたちょっとだけ預けて・・・
を繰り返していくのです
だからこそ聖書に出てくる様々な物語の中で
神様は何度も赦(ゆる)します
イエス様は「7回を70倍するまで許せ」と教えました
それは人が悩みと委(ゆだ)ねの間を行き来しながら
少しずつ神様へ到達する弱い生き物であることを
イエス様は知っておられ
そしてそのプロセスが成立するための配慮として
赦(ゆる)しを置かれたからなのです
クリスチャンになると荒ぶる事無く
いつも冷静に落ち着いて神様に全てを委ね
そして常に神様を見上げて歩む…
そんな理想があります
それは間違いなく目指すべき姿であると同時に
すぐに手に入れることの出来ない理想でもあります
だからこそ私たちは
イエス様に心の思いを預けていく努力を
しなければなりません
全てをいきなり預けるのはただの精神修行です
そうではなく
「イエス様がきっと良いようにして下さる」
と思うことをまずはがんばってみる
しかしその一方で
負の感情を抱く自分を否定してもいけない
その負の感情があることもまた
神に委(ゆだ)ねる重要なステップの1つであるからです