『申命記』と言うのは
 ここまで創世記から読み進めてきたモーセ五書の内容を
 ”再度語る”と言う構成で話が進んで行く
 そしてこの「振り返り」と言う行為は
 申命記の核心だけでなく
 聖書そのものに流れる「通奏低音」の1つ
 つまり最も深い重要な部分となっている



今日から『申命記』に入る中で
まずは申命記そのものについての話を
していきたいと思います

申命記の「申命」とは
漢語で「繰り返し命ずる」と言う意味であり
カナンの地を平定する戦いに臨むイスラエルの民に対して
過去に与えられた律法と約束を
繰り返し伝える書となります

申命記はモーセが書いたとされる
『モーセ五書』の最後の書ですが
その成立自体は
全てをモーセが書いたというよりも
モーセの記述をベースにして
後の編纂(へんさん)者が作り上げたものだと
考えられています

現在考えられている申命記の成立過程を辿(たど)ると
それは列王記下228節に行き着くと考えられています

ダビデが起こしたイスラエル王国は
ソロモンの時代を経て
北イスラエル王国と南のユダ王国に分かれました
この列王記下22章の時代は
古代イスラエル王国の分裂から300年近くが経過しています
既に大帝国アッシリアによって
北イスラエル王国は滅ぼされから100年が経過し
ユダ王国もアッシリアに従属する苦しい立場にありました
この時のユダ王国の王様がヨシヤであり
ダビデから数えて18代目の王様で
ダビデと同じ道を歩む信仰的にも真っ当な王様と描かれています

このヨシヤがエルサレムの神殿を補修する工事に着手し
その中で8節にある通り
当時の大祭司ヒルキヤが神殿の中から
「律法の書」を見つけたとヨシヤ王に報告します
この新たに見つかった律法の書がモーセの書いたものであり
後の申命記の原典であると考えられています
律法の書の内容を知ったヨシヤ王は
この書がとても重要な物であることに気が付き
我々が苦しい立場にあるのは
この律法を守らなかった裁きであると理解しました

当時のユダ王国の信仰は極めて不安定な状態にあり
エルサレムの神殿ですら
バアル神等の異教の像が置かれ
信仰の対象が定まっていない状況でした
そこでヨシヤ王はイスラエルの全指導者を集め
その前でこの新たに見つかった律法の書を読み上げ
本来の信仰に立ち返ることを訴えます
こうしてヨシヤ王によるユダヤ教改革が始まりました

ヨシヤ王の考え方はイスラエル王国の再興であり
既に滅んで人民が細々と暮らしている北イスラエル王国を統合して
1つのイスラエルに戻ること
そして信仰の中心をエルサレムの神殿に回帰させ
律法の書を信仰の柱として用いる事でした
当時は奇しくもアッシリア帝国が国内の混乱で
外に目を向けられない状態であり
この機に乗じて今風の言い方をするなら
「偉大なイスラエル王国を取り戻す」と言うのが
ヨシヤ王の決意だったのです

ただしこの改革は上手くいきませんでした
むしろ最悪の結果を招きます

エジプトは弱体化したアッシリアを滅ぼすために北上を開始し
その途中でユダ王国領土の通行許可をヨシヤ王に求めます
しかし未だに理由は分かりませんが
ヨシヤ王はこの通行を認めず
しかも軍を率いてエジプトと対峙するメギドの戦いが起こり
この中でヨシヤ王は戦死してしまいました
これによりユダ王国内では改革が中途半端な状態で頓挫(とんざ)し
後継者を争って不安定な状況に陥ります
またアッシリア帝国を滅ぼして力を伸ばしたバビロニア帝国がユダ王国を侵攻し
こうして「バビロン捕囚」が起こることで
ユダ王国も壊滅してしまいます

この一連の流れは
「律法を守らないと裁きを受ける」と言う強烈な歴史として
ユダヤ教史に刻み込まれ
律法を忠実に守れば祝福が
守らなければ呪いがもたらされると理解されました
これが後のヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記の編纂に
大きな思想的影響を与えたと考えられています

申命記 第1章より

出エジプトから40年と11カ月経ったこの日
モーセは神様から命じられる通りに
イスラエルの民へ語り始めました
現在目の前にいるイスラエルの民は全て出エジプトの第二世代
つまり物心ついた時点で荒野の生活の中にあり
それ以前の事を知らない世代です
もちろんそれぞれの家庭において
親から、祖父から、族長から聞いた話もあるでしょう
しかし「イスラエル」と言う1つの民族が如何にして生まれ
何を乗り越え、そこにどの様な神様の働きと助けがあり
そして今がありこれからの戦いに臨むのか
それをカナンの地へ入る直前に
これまでイスラエルの民が神様と共に歩んだ40年間の
総まとめとして語り始めました

まずは出エジプトを果たした第1世代が
荒野を旅すること3カ月
到達したホレブの山で1年以上滞在していた頃の話を
次の様に語りました

我々の主はホレブで仰(おお)せになった
「あなた達は既に久しくこの山に留まっている
準備を整えて出発しなさい
目指す場所はヨルダン川東岸からカナンの地
そしてユーフラテス川に至る広大な土地である」と
あなた達は
主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに
彼らとその子孫に与えると誓われた土地を取りに行きなさい

この部分には2つの引用が含まれています
まずホレブの山で再出発を図る場面は
民数記略第10章からで
銀のラッパと共にイスラエルがカナンの地を目指す旅を開始する場面です
一方で神様から示された約束の土地については
創世記1518節で
神様がアブラハムに対して直接約束する場面で語られています

この様にして申命記と言うのは
ここまで創世記から読み進めてきたモーセ五書の内容を
再度語ると言う構成で話が進んで行きます
そしてこの「振り返り」と言う行為は申命記の核心だけでなく
聖書そのものに流れる「通奏低音」の1つと言えるのです

通奏低音と言うのは
特にバッハの曲で印象的ですが
音楽のベースラインを形作る低音パートの事です
メロディラインの様に歌うわけでもなく
コーラスの様に響きを与えるわけでもなく
セカンドパートの様に主旋律を引き立てる物でもない
音楽の最も一番深い部分を流れる音であり
曲の雰囲気そのものを作り出す低音楽器の重要なパートです

聖書における最初の振り返りは
創世記第14節の天地創造における
「神は光を見て、良しとされた」であり
最後の振り返りは黙示録第216節にある
新しい天地創造におけるイエス様のご計画の完了
即ち「事は成就した」にあります

この最初と最後の間に存在する無数の振り返りこそが
聖書の教える「悔い改め」の一歩である訳ですが
先月の子供会でこの悔い改めについて
「間違えたことに気づいたら、それを辞めて、正しいことをすると言う事」と
子供向けに説明されていました
この時に悔い改めを語っていたのはバプテスマのヨハネですが
新約聖書で悔い改めと言えばやはりパウロが出てきます

パウロはコリント後書12-7で自らに
「思いあがる事の無いようにと
私の身に1つの棘(とげ)が与えられました」と述べています
この「棘」が何を意味するものかは様々な解釈があり
その1つが「パウロの過去」と言えるわけです
つまり、かつてパウロはイエス様を迫害する者で
イエス様の弟子や教えを語る人間を
捕まえて処罰することを誇りとしていました
その過去がパウロにとって
今福音を語る立場に変えられた者として
自分の中で自らを刺し続け戒める棘であると語っています

そしてこの棘について
取り除いてほしいと三度祈りますが
返ってきたのは
「私の恵みはあなたに十分である
力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」
との有名な御言葉へとつながります

つまり誰しも過去を振り返ると
そこには今の後悔につながる
「失敗した自分」が存在します
この失敗した自分はそこで終わったわけではなく
その失敗の中を通してもイエス様の働きがあり
それを経験した先に今の自分がある訳です

過去の自分を否定し
過去を無かったことにすると
今の自分がどこから来たのか説明が付きません
この説明がつかないところに迷いがあり
迷いは信仰の目を曇らせていく

大事なのは過去の自分を
変えられない事実として認め
その上でそこから今までの間に
どれだけの助けと導きがあったのか
そこを振り返る時に
誰もが自らの過去の過ちを直視し
その弱さの中でも
神様が働き続けて来た事に気が付かされる
それこそが悔い改めであり
悔い改めることでイエス様の存在と働きを認めたことになる
これが信仰の第一歩として必要な行いである
と言うのが
申命記を通じて聖書の示す
”信仰が成長するステップ”であると言えるのです