目の前の敵の強大さは理解している
 戦って勝てる見込みはない
 それでも、神が
 「信じて進め」と言うその言葉を頼りに
 一歩を踏み出して行く勇気を持つことが重要


*前置きの話はこちら→「8月9日」

申命記第224節より

前回、38年間の
荒野の旅を終えたイスラエルの民は
神様の指示に従い
血縁関係にある部族であるエドムと
モアブと衝突を回避しつつ
北上を開始したと言う内容について
モーセの回想を追いかけました
今日はその回想の続き
いよいよカナンの地の対岸
ヨルダン川の東岸を抑える為の
戦いの場面になります

ここでモーセは振り返ります
「荒野での生活を始めてから40年目
ついにアルノン川を渡った
主はヘシュボン王であるアモリ人シホンと
その国をあなたの手に渡した
シホンに戦いを挑み
占領を開始するようにと主は命令された

そこで私はまず
シホンの元に使節団を送って
領内の通過に関する交渉をさせた
大きな道だけを通って横にそれないこと
食べ物や水は
金を払って現地で買うことを申し出た
しかし主が彼の心を頑(かたく)なにしたので
許可を出さず
返って全軍を動かした為
最終的にイスラエルとの衝突が発生
主が彼を我々に渡されたので
我々はシホンの全軍を破った
そして街を一つ残らず占領し
ヘシュボンの人間は一人も残さず滅ぼし
家畜と土地を戦利品として略奪した

続いて北上する中で
ヘシュボンの北側に位置する
バシャンの国と相対した
この国の王であるオグは全軍を率いて
イスラエルを迎え撃つために出撃してきたが
主が恐れてはならない
私は彼とその全軍、その国を
あなたの手に渡したと言われた
そしてヘシュボンと同じ様に
イスラエルはバシャンを滅ぼし
その家畜と土地を手に入れた

こうして我々は
アルノン川からヘルモン山に至る
ヨルダン川の東岸を治め
カナンの地へ入る入り口を
まずは抑えることが出来た。」と

この時イスラエルの民に
勝てる確信があったかどうかと言えば
きっと無かったでしょう
毎回戦いに臨む直前に、神様は
「彼らを恐れてはならない」と命じています
何しろ戦う相手は
強固な城塞都市に住む
屈強なアモリ人で構成されたヘシュボン
そして巨人族レファイムの系譜にある
巨人族国家バシャンですから
「我々は神を信じて戦うから大丈夫」とは
中々確信が持てないでしょう
もちろんその思いが無かった訳ではない
しかしその確信があったかと言えば
自信を持って「あった」とは言えないでしょう

さて、前置きの話で
「意味不明な勇気」と言う話をしました

では何が意味不明な勇気なのでしょうか

例えば貯金を全額叩いて
宝くじを全力購入すれば
来月の生活費は無くなりますが
神様は必ず一等の10億円を
与えて下さるのでしょうか?!
とりあえず今の仕事が嫌だから
次の予定も無しに突然辞めて
仕事を探すことが勇気なのでしょうか??!

そうではないですよね
これらは単なる「無謀」です

「勇気」と「無謀」と言うのは
紙一重の様で
実はその定義が全然違うんです

「勇気」とは「リスクを受け入れた上で
それでも目的や信念の為に行動する心の強さ」です

「無謀」とは
「リスクを深く考えず
勢いだけで突き進む行動」です

ですから勇気にはリスクの認識が伴い
そしてリスクの認識には
必ず不安と恐怖がセットになります
勇者と言うのは不安を感じない強者ではなく
不安を受け止めた上で
それでも目的の為に進もうとする生き方です

イスラエルの民も同じです

目の前の敵の強大さは理解している
戦って勝てる見込みはなく
それでも神様が
「信じて進め」と言うその言葉に頼って
一歩を踏み出して行く

私が最初に転職した時もそうでした
結婚して子供が生まれたばかりの状況で
4〜5年続けた仕事を辞めて新しい世界へ行く
それは指導員と言う仕事が残業も多く
学校の長期休暇と繁忙期が重なるので
この先の子供と関われる時間が限られる
その時に
「このままの働き方では
自分の求める家族の在り方にならない」
と言う強い思いで一歩を踏み出しました
でもそこに不安が無かった訳じゃない
「とりあえず1年頑張ろう
1年やってダメならもう一度転職しよう」
と覚悟をしていました
結果的にそこから5年働き
今の大企業への転職のきっかけにもなった訳です

あの時に最初から
こうなる未来が見えていた訳ではありません
クリスチャンだから
イエス様からの特別な示しや導きが
見えた訳じゃない
ただ自分の信じる「これじゃダメだ」
と言う現状認識
そして「不安だけれども進んでみよう」
と思う一歩
それが過ぎ去って振り返った時に
「あれはイエス様の導きだったんだな」と
後から実感となって帰って来る
そう言った体験、信用の積み重ねが
「きっと悪い様にはならない」と言う
イエス様に対する信頼を生んでいくと言えます

そして一人一人が自身の人生の中で
踏み出した意味不明な勇気
それが何だったのかを振り返ってみる時
そこにどれだけ
イエス様の助けがあったかを認識できる
それが信仰においては
重要な作業であると言えるのです