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*前置きの話はこちら→「8月30日」
申命記 第3章12節より
前回は、イスラエルの民が
ヘシュボン及びバシャンと言う
ヨルダン川東岸の国々を制圧し
今後のカナンの地平定作戦の準備として
足がかりを得たところまでについて
モーセが振り返っている場面でした
モーセは次の様に振り返ります
「私はヨルダン川東岸を占領した後
この地域をルベン族とガド族
そしてマナセ族に分け与えた」
これはかつて
民数記32章ですでに触れていますが
ヨルダン川東岸を手中に収めた後
ルベン族らが
「自分達はこちら側で良いから土地が欲しい」
とモーセに申し出たからでした
これに対してモーセは
「あなた達は戦いに臨むことから逃げているのか」と問い
これに対してルベン族とガド族は
「我々が先陣を切ってカナンの地に進み
その覚悟を示します」と答えていました
これらルベン族・ガド族の姿勢に対してモーセは
「戦士は皆武装して、同胞イスラエルの先頭に立って
ヨルダン川を越えて行きなさい
ただし妻子と家畜に関しては
すでに与えた土地に留め置き
同胞イスラエルが安住の地を得るまで戦い続け
それが果たされた後に
自身の領地へ帰ってよろしい」と伝えました
またマキルと言う名前が出ていますが
これはマナセの息子
ですからヨセフの孫にあたる人物です
このマキル族は
ヨルダン川東岸の制圧作戦において
ギレアデを積極的に征服し
ここでルベン・ガド族に続いて
東岸に「嗣業(しぎょう)の地」を得たのでした
ですからマナセ族は
カナンに嗣業の地を得ますが
マナセ族の支族であるマキル族は
東岸に土地を得ると言う飛び地になっています
この頃にモーセは神様に祈っています
「主よ、あなたは僕である私に対して
あなたの存在が大いなる者である事
そして力強い働きを示してこられました
どうか私にも彼らと共に渡って行かせ
ヨルダン川の向こうの良い土地、美しい山
またレバノンの風景を見せてください」
と願っていました
ですが神様の答えは
「もうあなたは十分である
二度とその話をするな」
と言う厳しいものでした
これは単にモーセが
「メリバの泉」の件で責任を取らされた
と言う事だけではなく
もっと俯瞰(ふかん)した時に
「モーセがカナンの地へ入れない」と言う事が持つ
大きな意味が見えてきます
モーセは
カナンの地へ入れない理由として
「あなた達の故に」と言っています
ここで言う「あなた達」とは
イスラエルの第1世代ですね
つまりモーセは
メリバの泉で判断を誤った罪だけでなく
イスラエルの第1世代の罪の責任を取らされる
と言う側面も強いのです
聖書はこの代表者に
対する強い権限を与える一方で
その結果に対しても強い責任を問うています
代表的なのがアロンを始めとする大祭司であり
出エジプト記の28〜29章で
大祭司の役目が説明されています
その中で民の代表として神の前に立ち
祭壇で儀式を執り行い
神の言葉を民に伝えると言う
大きな権限を持っている一方で
正しい儀式を行わなければ
死を持って責任を取らされること
大祭司の怠慢よって民の罪を招くこと
大祭司の不備は民全体の罪として扱われる
と言う事が示されています
つまり出エジプト以降
イスラエルの第1世代がその罪により
カナンの地へ入ることが許されなくなった
そして実際に荒野の旅の中でその数を減らし
いざヨルダン川を渡る直前において
ヨシュア・カレブ・モーセを除く
イスラエルの第1世代の主力が
全て死に絶えている
ただしヨシュアとカレブは
次世代の中心的立場ですから
モーセ身の振り方だけが浮いている状態だった
ですからモーセが
カナンの地へ入れないと言うのは
イスラエル第1世代の代表者として
その結果責任を問われている・・
「メリバの泉」と言うモーセの個人的な罪に加え
イスラエルの第1世代が
カナンの地へ入れなくなった時点で
モーセの運命も
そこに連動していたと言えるのです
ではなぜ荒野の旅の中で
モーセは生かされたのか
それはモーセにかわる第2世代のリーダーが立つには
まだ不十分だったからです
なのでモーセは
ヨシュアが十分にその役割を果たせるまで生かされた
しかしその時が成就した今
既にモーセの役割は終わったと言えます
ですから神様はモーセの願いを却下した
それはモーセの人間的な願いを
冷たくあしらったのではなく
ここまでモーセの生きてきたこと自体が
神様の特別な計らいの中に在ったわけです
ですから3章26節には
「既に足れり」と書かれている
神様が
「私の計画において
あなたの役割はもう終わった」
と告げているのです
また別の角度から見ることも出来ます
カナンの地へ入る事自体は
アブラハムと神様の間に置かれた契約
約束に基づいています
そしてそこから数百年の歴史を経て
今その約束が果たされようとしている
この約束が果たされる中にモーセは必要ではない
モーセだからカナンの地へ連れて行けるわけではない
つまり神様と人間との約束は
1人のカリスマ的指導者によって果たされるものではなく
最初から神様と人間との関係性の中で成立しているのです
ですから神様が用いれば
誰が代表者であっても約束は果たされる
もちろん誰を用いるかは神様にその主権があるとは言え
常にこの物語の主催者は神様であり
人間がその舞台構成に介入することを許さない
それが例えモーセであったとしても
と言う強いメッセージでもあるのです
ただし指導者としてのモーセは役割を終えましたが
人間モーセが
神様から愛されている事は変わりません
ですからヨルダン川を渡って
カナンの地へ入る事は許されなくても
ピスガの頂から
その土地を眺めることは許される
それが神様からモーセに与えられた
最大の慈しみでもあると言えます
そしてもう1つ
聖書において「ヨルダン川を渡る」と言うのは
とても大きな意味があります
へブル書7-19では
「律法は人を完全にすることが出来ない」
と説きます
つまり律法をもたらしたのは誰であるか?
モーセですね
モーセは律法を受け、民を導き
ヨルダン川の手前までは進むことが出来た
しかし最後の一線が超えられない
それは律法の限界点であり
そこから先の約束の地へ進む為には
ヨシュアが必要であると・・
このヘブライ語の「ヨシュア」と言う名前を
ギリシャ語で読むと「イエス」となります
つまり律法の限界を示したモーセに対し
ヨルダン川を越えて新しい時代を開くのは
ヨシュアでありイエス様であると
へブル書は比喩を混ぜています
だからこそいつも心が迷っていた第1世代には
安息が与えられず
旧約のヨシュアもカナンの地を平定はしましたが
安息を得たわけではない
安息は新約の時代
イエス様によってもたらされるのだと言う事を
ヘブル書は説いているのです
ですからイエス様は常に私達に対して
聖霊の導きによって
ガイドラインを示されています
もちろん事前に目に見えて道が見えるわけではない
ですが振り返れば
そこにしっかりとした道がある事を知ることが出来る
だからこそ信じて進む
見える道を安心して進むのではなく
見えないけれどもイエス様を信頼して歩む
そのガイドラインが導く先は安息
つまり安心して生きることが出来る人生の在り方です
その姿勢の置き方が
日々の信仰を積み上げて行くと言えるのです