過去を振り返る時
 ただ思い出すのではなく
 「どう助けられたのか」
 と言う視点から振り返る時に
 そこに感謝が生まれ、信用が生まれ
 それが神に対する信頼となって
 前に一歩踏み出す原動力となる



*前置きの話はこちら→「9月13日」

申命記  第4章1節より

これまでの歩みを
一通り振り返ったモーセは
これからを生きるイスラエルの民に対して勧告します
ポイントは3つ
�@掟を守ること
�A過去の体験を忘れないこと
�Bそれを次世代に伝えること、です

「イスラエルよ
今から私が告げる掟と律法を忠実に守りなさい
そうすればあなた達は主に在って守られ
主が与える約束の地に入り
そこを手に入れることが出来るでしょう
ただし私の命じる言葉に
何一つ加えても減らしてもなりません
ただ私の命じる通り、主の戒めを守りなさい
主がバアル・ペオルで為した事を見てきた通り
バアルの神に従う者を主は滅ぼされた
しかし主を信じる者は皆今日も生きている

私が主から命じられた通り
あなた達に掟と律法を教えるのは
あなた達がこれから約束の地へ入った後も
それを守り続ける為です
これを忠実に守りなさい
そうすれば知恵と良識を示すことができ
諸国民はイスラエルに知恵があり
賢明な民族だと言うでしょう。」

バアル・ペオルとは
民数記25章で
モアブの娘に誘われたイスラエルの民の一部が
バアル神を礼拝する儀式に参加した大事件でした
これによって主の怒りが発せられ
最終的に当事者である24000人が
疫病で死んだとあります

また「諸国民はイスラエルに知恵があり
賢明な民族だと言う」とありますが
これは
イスラエルの民が称賛されて嬉しいと言う話ではなく
イスラエルに対して
その様にふるまわさせている主の知恵と良識が
諸国民に示されると言う事です

「ただひたすら注意して観察し
目で見たことを忘れず
生涯心から離すことなく子や孫達に語り伝えなさい
あなた達がホレブの山で主の御前に立った日
主は私に言われた
”民を私の元に集めなさい
私の言葉を彼らに聞かせ
彼らが地上で生きる限りは私を畏れる事を学び
それを子らに教えることが出来る様にしよう”と

あなた達はホレブの山で主の声を聞いたが
その姿は声の他に何の形も見なかった
主は契約を示し
それを十戒として2枚の石板に書き記された。」

ここでモーセは
「自分が見て体験したことを忘れず
子や孫に語り継ぎなさい」と繰り返し命じています
それは人の信仰が
「体験として認知すること」
「体験を忘れないこと」
「体験を伝えて行くこと」にある
とも言っている訳です

ところがここで
少し不思議な事が起きています
モーセが今語っている相手は
イスラエルの第2世代です
その世代に対して
「ホレブ山での契約の記憶」を共有している
「こういう事が在った」と言う語り方ではなく
「ホレブ山で体験したでしょ?」
と言う語りかけをしている
本来このホレブの山で
十戒を受け取ったのは第1世代であり
第2世代にとっては
親世代の体験でしかないのです

しかしモーセは
第2世代に対しても第1世代と同じ経験を
前提として語っている
これは第1世代が経験した事を
第2世代が自分の経験として受け止めている
と言う証でもあります
自分が属しているイスラエルと言う共同体が経験した事
それが自分が生まれる以前の話であったとしても
それは自分の経験として受け止めて行く

この外から与えられる過去の記憶が
次の世代に同じ信仰を形成していく
この構造があるからこそいつの時代でも
「律法は自分が受け取ったものだ」と言う認識が生まれ
そして常に自分の事として
主との関係性を主体的に作っていく
そんな信仰を継承する仕組みを
モーセは語っているわけです

さて前置きで
「エピソード記憶」の話をしました

その中で
人は過去の記憶の断片から
今に合わせて記憶を再構築することが出来る
とお話ししました
それは逆に言えば
知識として与えられた物語を
繰り返し外からエピソードとして与えることで
「自身の物語」として再生できるようになる
と言う事でもあるんですね
本当は伝え聞いた物語であるのに
自分が体験したことであるかの様に
語ることが出来る
これが人の意識が持つ「物語力」と言えます

ですからイスラエルは
共同体が過去に経験した物語を
次世代に語り継ぐ
それも家庭内でこと有る毎に繰り返す
その内にその物語は次世代の物になり
そしてその次の世代へと受け継がれていく
人を創造した神様だからこそ
人がどの様にして体験を継承できるか
良く分かっていると言えるのです

そして私たちも同じです

これまで
「過去を振り返ってイエス様を信用し
そこから前を向き
イエス様を信頼して歩みましょう」
と言う話をしてきました
この振り返る時
私たちの頭の中では
記憶の断片から体験が再構築されています
それは考え方ひとつで
「イエス様に助けられた物語」ともなれば
「イエス様を信じているのに
大変な目にあっただけの物語」ともなる

振り返ると言うのも
ただ思い出すのではなく
「どう助けられたのか」
と言う視点から振り返る時に
そこに感謝が生まれ、信用が生まれ
それが信頼として
前に一歩踏み出す原動力となる

人の記憶と言うのはあいまいな物です
思い込めば
無い物語を作り出すことも出来ますし
架空の物語を信じ込むことが出来る
そのまま過去の映像を
思い出すことが出来ないのであれば
考え方一つで
イエス様に栄光を帰せる物語として
再編集することも出来る

過去は変えられなくても
過去の物語を
イエスさま中心で
再編集することはできる
それが「信仰の歩み」と言えるのです

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