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*前置きの話はこちら→「9月27日」
申命記 第4章15節より
モーセは続けて
イスラエルの民に警告をします
「ホレブの山で主が我々に火の中から語られた時
あなた達は何の形も見なかった
堕落して
自分の為にいかなる形の像も作ってはならない
男や女の形も、地上のいかなる獣の形も…(中略)
また目を挙げて天を仰ぎ
太陽・月・星と言った天の万象を見て
これらに惑わされ
ひれ伏し仕えてはならない
これらはあなたの神、主が
天の下にいるすべての民に
分け与えられたものである。」
ここでモーセは
偶像を作る事を強く禁じています
それは出エジプト記19-18で描かれた通り
ホレブの山でイスラエル第1世代が目撃した神とは
山を包む炎と煙で示された「臨在の象徴」でした
従ってイスラエルの民は
神の姿形を直接目撃している訳ではありません
声は確かに聴いた
しかし誰も見ていないのに
神の真の姿を形として作る事は出来ない
つまり作られた偶像とは
必ず人間の想像の産物であり
神の形では無い物になってしまう
また天体や自然現象に
神を見出してはならないと忠告しています
これらの天文や自然現象は
神が地上に在る者達の為に用意した存在であり
それが神ではないからです
特にイスラエル第1世代は
エジプト出身者で構成されていますから
エジプトの太陽神が
イメージの中に大きく存在しています
エジプトでは月や星々も神であり
動物の形をした神が崇められていました
ですから特に
こうした自然も神の創造物でしかないと言う事が
殊更強調されているのです
創世記1-14を見れば、これらの天体は
「しるし」として創造されたとありますから
モーセの言葉と一致する事がわかります
またモーセは続けて語ります
「主はあなた達の事で怒りを向けられ
私がヨルダン川を越える事も
約束の地へ入る事も決してないと誓われた
従って私は川を渡ることなくここで死ぬ
しかしあなた達は渡ってカナンの地へ入る
あなた達は主との契約を忘れず
主が禁じられた如何なる形の像も
作らぬようにしなさい」
モーセが「メリバの泉」を始めとした
イスラエルの不信仰の結果として
約束の地へ入ることが出来なくなった事は
前回お話ししました
ですからモーセは
イスラエルの民が約束の地に入った後
即ちポスト・モーセの時代にも
契約から離れる事なく
偶像を作らない事を肝に銘じなさい
とくぎを刺しました
では万が一偶像を作ったらどうなるのか?
それは25節から示されている通りです
「主が約束の地から離されて速やかに滅び
諸国民の間に散らされ
国々に生きる者はわずかとなる
そこでは木や石の神に仕えるであろう」
正にこれは、ダビデ王、ソロモン王の後
南北に分裂した古代イスラエル王国の未来を
予言しています
北イスラエル王国はアッシリア捕囚によって滅亡
ユダ王国もバビロン捕囚によって大きな痛手を負う
しかもその原因が
両国に偶像崇拝が入り込んだからでもありました
しかしユダ王国には「ダビデ契約(サムエル下7-8)」
そして「メシア予言」がある為
完全な滅亡は避けられた
ですが古代イスラエル王国時代の勢いは失われ
その後にヨシア王による神殿の再建
律法の書による宗教改革
そしてゼルバベルによる国の再建が為されるまで
神との断絶が続いたのでした
さて前回から引き続き
モーセはヨルダン川を渡れないと言う事が
繰り返し明示されています
それは
イスラエル第1世代の責任を取らされると言う
モーセの役割の集大成であると言う視点を
前回はお話ししました
今回は別の角度から
このモーセがヨルダン川を渡れないと言う点に
スポットライトを当てて行きます
それはモーセがヨルダン川を渡れないのではなく
”神から見た時に渡らせてはならない”
と言う視点です
モーセの役割は
イスラエルの民を約束の地に導く事でした
しかし導きを完了してはならないのです
なぜなら完了すると
イスラエルの民にとって
この物語の主役がモーセになるからです
「我々を導いたのはモーセである」と言う物語が
イスラエルの中で完成してしまうと
それはモーセが信仰の対象になってしまう
モーセが偶像になってしまうのです
また次の指導者もモーセの物語がある事で
神はどう語っているか?よりも
「モーセはどう判断したか」と言う所に
よりどころを求めてしまうリスクが発生する
従ってこの物語は
モーセの手で完了させてはならないのです
常に完了させるのは神であり
モーセはその役者に過ぎない
その立場を明確に示せる場所と言うのが
このヨルダン川手前と言う
目的が果たされる寸前の状況だった訳です
人の脳であり意識と言うのは
物語を作る力があります
しかしその力は
時に完成した物語を
神格化してしまう危険を持っています
「前置きの話」でジョブズ氏の話をしましたが
「会社を立て直した立役者」
「スマートフォンを完成させたカリスマ経営者」
と言う完成された物語は
ファンの間で神格化され
常に「ジョブズが正しい」
と言う権威が作られて行く
それはもう
「ジョブズ教」と言う新しい信仰の始まりです
そして、それは教会としても同じです
カリスマと言うのは
人を惹(ひ)きつけて
教会を、教団を大きくする
しかしそこで作られた物語は
時にカリスマを
神の代わりに据(す)えてしまう
「聖書はなんと言えるか」ではなく
「カリスマはどう解釈したか」が
正解となってしまう
そしてカリスマのファンは
その死後に
「カリスマはこう言っていた」と
亡霊の言葉を権威の様に掲(かか)げ
言葉は掲げた者に権威を持たせる
都合の良い道具になっていく
しかも亡霊は反論しないし
その乱用を止めることも出来ない
この人の弱さを
創造主は分かっているからこそ
モーセを
「物語を完成させた指導者」にしなかった
常に物語の最後のピースは神がはめる
逆に言えば
そのピースを人間は持っていないと言う事を
私たちに警告していると言えます
だからこそパウロは
自身が信仰の対象となる事を警戒し
「我は植え、アポロは水灌(そそ)げり
されど育てたるは神なり」(1コリント3-6)
と語った
つまり「神様に栄光を帰す」と言う表現をしますが
この栄光、即ち
「最後のピースをイエス様に委(ゆだ)ねる」
と言う事でもあるわけです